「精神史」という批評意識 森崎和江を読むために

去年の揺れから、いろいろ経巡った挙句、半年ほど森崎和江(敬称略で失礼します)を読んでいる。

これは原子力発電所の事故と「復興」のありかた双方を考察する上で、「成長・発展」イデオロギーと「エネルギー」の関係、そしてそこでの「労働(者)」の位置付けを戦後あるいはそれ以前まで遡って考察しなおす必要性を痛感したことによる。
とはいえ、このテーマはあまりにも広大で手の付けどころがないので、高度経済成長直前にして石油への「エネルギー革命」によってその座を失した、炭坑産業とそこで生きた炭鉱労働者たちに的をしぼる*1ことにし、そこで紹介されたのが森崎和江だった。

森崎和江の著作は膨大でテーマも多岐にわたり、さらに、今集中的に読んでいる60〜70年代の著作は特に難解なので、自分が理解し得ているとは言い難いけども、お世話になっている研究会で読み進めてきた中で、個人的な興味関心から気になっていることを書き留めておきたい。ただし、今のところ読んでいるのが60〜70年代の著作にほぼ限られているので、そこにしぼって。

そのまえに、ざっくり個人史を。
森崎和江は1927年、朝鮮大邱に生まれ、17歳(1944 )年で単身九州へわたり、1947年福岡県立女子専門学校(現・福岡女子大)を卒業している。1950年に詩誌『母音』の同人に。1958年、筑豊に転居し谷川雁、上野栄信らと『サークル村』を創刊(〜1960年)し、同時に女性交流誌『無名通信』を刊行している。『サークル村』活動から離れた後、『まっくら――女坑夫からの聞き書き』(1961)を皮切りに、70年代までに限定しかつテーマを炭坑と女性に絞っても、主要なもので『非所有の所有――性と階級覚え書』(1963)、『第三の性――はるかなるエロス』(1965)、『奈落の神々――炭抗労働精神史』(1973) 、『からゆきさん』(1976)などを出版し、精力的な著作活動を展開した。なお、これら著作に所収されたエッセイを再編集・再構成した『精神史の旅 森崎和江コレクション 1-5』(2008-2009)も出版されている。


私がいま最も関心を抱き、(いまのところ)森崎和江の著作の核心部分に触れていると思われるのは、彼女の「精神史」という批評意識。
これはその副題にこの語がはじめて現れる『奈落の神々――炭坑労働精神史』の中で次のように用いられている。

奈落の神々 炭坑労働精神史 (平凡社ライブラリー)

奈落の神々 炭坑労働精神史 (平凡社ライブラリー)

 地下労働としての炭坑など、消え失せさせたいしろもの以外ではなかった。無残としかいいようのない収奪は、その草創期から最後まで収奪の質をかえつつ続いた。それは徹底した人間性破壊であった。そのことによって近代日本は開花したといって過言ではない。
 戦後、炭坑は労働様式が変化して機械の導入が徹底し、納屋制度はなくなって民主化していた。[…]明治・大正昭和初期の坑夫は「戦争のあとタンコウモンもつまらんごとなった誰も彼も会社員のげなつらになってしもうた。[…]」とよく話した。[…]
 […]閉山がうち続き、もはやヤマの精神を受け止める誰も確実にいなくなることがはっきりしたころ、その言葉は悲痛な響きを含んだ。それは生ま身で地下を体験した者の二度目の死のような響きとなった。
 それはひょっとすれば私が地下に描きえなかった人間――おそらく地下労働集団によってはじめて開拓され、そこにおいて共同のものとなって存在していた或る精神――の滅亡を恐れる声だったのではあるまいか。(『奈落』pp.14,15)

この失われゆく精神とその来歴を、森崎は聞き書きの中で見出していく。
 その聞き書きの中で描写されるのは、個々の坑夫の個人史を掘り下げていく中で見出された、維新以降の没落農民という出自、貧しい農村からさまざまな流転を経て炭坑に流れ着き、その後もいくつものヤマを転々とする坑夫たちの姿である。炭鉱労働者たちは日本の近代化を支えた賃労働の極北に位置したものたちであると同時に、「田舎で土地から切り離され都会へ出て労働者に」とのナラティヴにそぐわない、「田舎から田舎へ」という存在でもあった。実際に歴史が森崎の目の前で示したように、彼ら彼女らは「革命へと向かう階級意識の獲得」という物語からあらかじめ排除されていたのだった。壮絶な争議が大正から繰り返されていたにも関わらず。
 だが森崎は、革命へ向かう疎外論からすらも疎外され、合理化と「エネルギー革命」により失われつつあった人たちをただ記録し残すことのみに専心したのではなかった。彼女の慧眼はそれを女性たちの視点から描いたことと、「奈落」で醸成される「地下の精神」を米や農業を「原風景」と捉えそこに「日本」を見出す「地上の精神」と対置したことにある。と思う。
 森崎は労働者(潜在的な革命主体)=男性との前提を、女性の炭鉱労働者に焦点を絞った聞き書きを行うことできっぱりと批判し得ている。さらに、そこで見出される「女性」なるものを男性との対置においてとらえるのではなく、集団内部にいくつもの分断線を持ったものとして提示している。ともに炭坑で知り合った「生んだ女」と「生まない女」の往復書簡の体裁をとった『第三の性』はその分断とつながりの双方を、両者間に見出される暴力と痛みを前景化しつつ描き出している*2

第三の性―はるかなるエロス (河出文庫)

第三の性―はるかなるエロス (河出文庫)

 森崎のもう一つの独自性である「地下の精神」はさらに興味深い。前述したように森崎は聞き書きを通して、多くの炭鉱労働者たちの個人史の中に農業からの没落と農村地帯からの離脱を読み取っている。その際、彼ら彼女らが炭坑に求めたものがはっきりと描かれている。たとえば『まっくら』のこの部分。

あかい煙突めあてでゆけば/米のまんまがあばれ食い
炭鉱には、ふとか煙突がたっとるけんそれをめあてに行きさえすれば食われんこたぁなか。

ここで明らかにされているのは、農村から切り離され都会ではなく炭坑に向かった者たちが求めたものとしてのコメだ。だがこの「コメ」のイメージは次のような個所にさらなる重要性を持って現れている。『奈落』の「米のちから」というセクションの末尾。

わたしは借金して、借金を返すために、一時の腰かけのつもりで出てきた。そして努力して借金を返すことができたので、自作農をしようとしたが、昭和一六年、戦争で国家総動員法だから帰さんという。ヤマは入坑状態はわるく警察なんかなんとも思っとらんので憲兵が来ていた。昭和三年からしんぼうして、やっと田畠が自分のものになったのに、いざ帰って百姓しようと思うのにいなしてくれんとじゃ。人に頼んで小作してもらいよるだけじゃ。わたしは百姓が一生の目的じゃった。じゃが、やむをえん。帰ったら徴用で呼び出すという。そして勝つ勝つといい、負けた。わしは不在地主ということで、土地は小作人のものになってしまった。その補償はなかった。(65)

この証言者は米をはじめとする農業から切り離され、米を求めて炭坑に行き自身の「一生の目的」を達成するために炭坑労働に耐え抜く。彼を炭坑に向かわせたのも、炭坑に留めたのもコメであった。そしてその彼の思いを利用したのが日本政府であった。森崎は違う個所でこうも述べている。

石炭にいどむその[炭坑労働者たちの]全身は地上の文化――明治維新であり近代国家建設であり資本の蓄積であり国力増強でありアジア支配であるところの意思――によって間断なく支配され強要され、あたかも機能の化石のように見えてくる。(『奈落』12)

近代国家建設の礎に、いやむしろこう言ってよければ人柱にされた炭坑労働者たち、は「地上の文化」=米=農業(「天」皇あるいは「天」子なる語を思い出してもいいかもしれない)に支配されながらも、生き生きとした「地下の文化、精神」を湛えていたのだ。森崎にとって炭坑労働者とは近代国家建設ひいては高度経済成長の裏側であり、都会の労働者「階級」の裏側であり、さらに「地上の文化=コメ」の裏側でもあったのだ*3

 革命へといたるとされる労働者の外部として田舎から田舎へヤマからヤマへと流浪を続ける労働者、女坑夫への注視とそこにある看過しがたい分断、そしてコメ的日本あるいはコメ農業を日本文化の中心に据えるイデオロギーへの痛烈な批判。これら森崎独自の視点が『サークル村』が終わってからすぐの著作に見出されるのだから、むしろこの問題意識は『サークル村』および『無名通信』の活動時期から醸成されていたと考えるべきだろう。あるエッセイでは当時を回顧してこう述べている。

 私は当時まだ幼かった私の二人の子とともに、子共らの父親のもとに行ったり、雁さんに呼び出されたりして往来していた。軒を並べていた英信さん夫妻がなにかと心あたたかく私たちをつつんでくださった。植民地で生まれ育った体験が鉛のようにくいこんでいて、サークル村会員が評価する日本の体質に或る欠陥を感じていた私は、孤独な心を抱いていた。雁さんはこの宣言を書くかたわら、たきぎを割ったり私の子供をねかしつけたりしながら「君は日本を知らんからそんな下らんことをいうけど、例えば阿蘇では…」と話した。また、かまどをめずらしがる私の前にかがんで、もはや私は忘れてしまったけれど、なんでも「はじめはポタポタなかポッポ云々」といって米をたいた。私は、何はともあれなじまねばならない、この日本に…と燃える火をみつめた。民衆のこの火が朝鮮半島を焼いたことを考えながら。
 そんなふうであったから、私のサークル村での位置は、その主流をなすものとどこか表裏をなしていた。そのことが私をこの運動から離れがたくさせた。(「『サークル村』創刊宣言」、『コレクション2』p.97)

上記、坑夫たちの精神史を探る中で森崎はサークル村の中に「或る欠陥」を見出していたのだった。それは一言でいえば出自の差異であり植民地の経験に対する態度の差異なのではなかったか。それが、百姓から坑夫へというナラティヴの重視とつながっているかもしれない。「日本を知らんから…」の直後に描かれている米を炊くという行為をここで見逃すことはできない。これに加えて、森崎の出自にかかわる幼年時代の記憶の描写において、米のイメージは特権的ともいえる重要性を持っている点にも注目しておきたい。

私が植民地下の朝鮮で抱いていたような緊張感が内地では消えた。農を生きる人々にとりかこまれている私の、その恥部さえ、ここではうすれるかに感じられた。今にしておもえば、米をつくりつつ小米さえ食べ兼ねた朝鮮の農民とその子らのまなざしが、私をゆさぶりつづけていたのかもしれぬ。それは今なお日本の外から伝わってくる。(「ひそかな田植え」(1975)『コレクション1』)」

ここにきて明らかになるのは、森崎の独自の論点を形成する問題意識の、その革新に、個人的な経験(コメ、地上の文化・精神への批判的思い)が間違いなく存在するのであり、森崎自身、そのことに意識的であるということだ。
このあまりにも当たり前に思われるかもしれない点は、私にとってはとても重要だ。なぜなら私の(いちおう)専門であるポストコロニアル批評が、ある種の「政治的正しさ」の議論でもって受け入れられ、狭小な意味での「政治批評」なってしまっているように思われるいま、この個人の経験において社会や歴史について語る、という姿勢はとりわけ重要だと思われるからだ。もちろん、ここで想起すべきはウィリアムズが『都会と田舎』の序章および終章で繰り返し述べる「個人的経験」であろう。

そういった意味では『森崎和江コレクション――精神史の旅』の編集方法はとても興味深い。

森崎和江コレクション-精神史の旅 1 (1)

森崎和江コレクション-精神史の旅 1 (1)

これは炭鉱労働に絞れば森崎の代表作でありここまで見てきたとおり森崎の問題意識の核心が垣間見れる『奈落の神々――炭坑労働精神史』を覗けば、唯一「精神史」なる語が用いられている著作である。

炭坑労働者たちという対象を可能な限り深く掘り下げていくために森崎が用いた「精神史」なる語が、今度は森崎自身を自分で掘り下げるために用いられている。
(ここで、やはりサイードが『文化と帝国主義』で主に展開した批評方法である「対位法的読解」がその自伝『遠い場所の記憶』末尾で自身を描写するときに用いられている、という点を思い出す。)

文化と帝国主義1

文化と帝国主義1

遠い場所の記憶 自伝

遠い場所の記憶 自伝

そしてこの『コレクション』はその著述内容に沿って幼少時代の朝鮮での記憶からサークル村を経て炭坑労働者への聞き書きの時期、そしてそれ以降、と配置しながらも、所収されたエッセイの書かれた年代はバラバラに配置されている。したがって同じ章の中でも、語り口もスタイルも単語でさえもバラバラなエッセイがまとめられているのだ。「対象」に特化して読みたければ、バラバラの文体と成立年代に則して変容している論点を組み上げなおして読まなければならないし、年代ごとに順を追って読もうとすれば、章や分冊のあいだを大きくまたいで縦走的に読まなければばならない。けっして直線的に、言うなれば綜合的な「円熟」へと向かう物語として個々のエッセイを読んでいくことはできない。このありかたを森崎は「精神史」と呼んだのではないだろうか。

またここでもウィリアムズの議論を想起しておきたい。森崎の「精神史」という批評意識を考える上で、ウィリアムズ(とその影響を色濃く受けたサイード)の思想、とくに「回想の感情構造」を考えるのは、少々とっぴかもしれないが、無益ではないだろう。

田舎と都会

田舎と都会

いまわれわれが生きている世界では、生産と社会関係の支配的様式が、冷ややかな、孤立した、外的な認識(ルビ:パーセプション)と行動とありかた――人を受容しものを享受するというよりはむしろ人を利用し物を消費するというありかた――を教え、押し付け、さらにそれを正常なるもの、いや、変更の許されざるものにしようとしている。したがって回想の感情構造は、こうした特有な社会的歪曲への反応として欠くべからざる重要な意味を持つのである。


* * * * * * * * * * * 

寝る前の時間を使って、さくっと書くつもりが長大になってしまいました。
冗長ではありますが、お読みいただけると嬉しいです。

*1:これはたとえば『生きてるうちが…』でのいくつかのシークエンス(土中から這い出してきた泉谷しげる扮する原発作業員が北九州方言を話すこと、倍賞美津子たちが浜辺で歌う「もぐらのまつり」が北九州炭鉱地帯に起源をもつらしいこと)に着想を得ているし、開沼『「フクシマ」論』での炭鉱労働者の扱いやウィリアムズ『田舎と都会』への言及に触発されたものだ

*2:ちなみに森崎はいくつかのエッセイの中で、サルトルとともに来日したボーヴォワール(『第二の性』)と会食した際の二人の様子を描写しつつ、ボーヴォワールに対する控えめながらもはっきりとした違和感を述べている

*3:この点については網野善彦との異同を整理する必要があるかもしれない。森崎は27年生まれ、網野は28年生まれで、ほぼ同世代。ってか学年がいっしょ。