【備忘録】『風立ちぬ』について

せっかくつぶやき連投したので。




やっと『風立ちぬ』観てきた。とりあえず、見終わった直後の感想。「タバコ吸いてぇ。」


二つの「美しい」が堀越と奈緒子の間でことなった形で響きあい、それにartの二つの意味が対応する。幸福な成就の望めないこの二者は「風」を仲立ちに浮世から離れた「離れ」で束の間の時間を過ごすが、カタストロフ(震災と戦争)の象徴たる煙をこよなく愛する堀越は奈緒子の美しさを護れない。


人工的なものと芸術の間で揺れるartを「風」がかろうじて仲立ち(し損ねる)、というのは自然との想像的な交感あるいはイノセンスの象徴ちょして「ふわっと飛ぶ」を描いてきた宮崎の(トトロ、ラピュタなど)いわば「出自」を、「呪われた夢」を指示しているように思われる。メーヴェのイメージ。


おそらく、宮崎アニメがエコ的なものを描く際に頻出する「ふわっと浮かぶ、飛ぶ」は、人間的なものと自然的なものの、言わば異体の複合物=キメラであって、そこで描かれる/それを描くのは「キメラのアート」なのだろう。トトロのコマ、ネコバス、メーヴェ巨神兵腐海の生き物たち、ラピュタ...


だから、自然/人間の対峙の悲観的帰結を前景化したタタリ神は「ふわっと飛」ばない。物語りを駆動させ展開させ、時には解決する「キメラのアート」群が、おそらく宮崎的なエコ思想の形象を成立させているのだけど、今回の映画はそのキメラが火を吐くものであることを、人間/自然対立の解消あるいはその合一のユートピアが「呪われた夢」であること、そしてそれが如何に呪われていようとも夢であることを、語っているのだと思う。どれほど呪われていても、逃れがたいほどに、言葉を失わせる程に、「美しい」。

奈緒子が「美しい自分だけを見せたかった」と語られるとき、堀越との負っているイメジャリーの対立構造を鑑みると、今回、宮崎映画ではじめてキスシーンとセックスシーン(へと直結するシークエンス)が描かれた意味は大きい。加えて、結核であるにも関わらず自身を美しく見せようと振る舞う奈緒子の横で、自身の美しい飛行機のための設計をしながら煙草を吸うシーンも決定的に重要だ。なぜなら冒頭の震災後の市街地炎上の遠景と末尾の爆撃による市街地炎上の遠景が、立ち上る煙で重ね合わせられるとき、そこでは人間/自然両方によるそれぞれの災禍が、煙によって結び付けられているから。

とはいえ、この枠組みだと「人間/自然=男性/女性=技術/芸術=強/弱」の枠組みの再確認になってしまう。これを宮崎のイデオロギーと考えるならばこともできるけども、「国民的作家」でありつづけてきた彼の、彼なりの率直な総括なのだろうと、私は感じた。


まだ、『風立ちぬ』について悶々としてる。堀越の飛行機への夢を「呪われた夢」と述べるところはとりわけ重要な気がする。たとえば、オッペンハイマーの原爆へのそれを考えてみたらどうだろう。堀越の苦境は「わたしたち」の苦悩でもある。…気がする。




一応、まとめてみる。
 今作で重要なのは人的/自然的双方のカタストロフが同じ「煙」というイメージで表現される一方で、堀越と奈緒子はそれぞれart=技術(航空機の設計士)/芸術(油絵を描く)=人工的(飛行機、居場所は工場)/自然(居場所は山奥の療養所)などの対立的イメージを負わされているという構造。
この対立構造を媒介するのが、カタストロフと死においては煙であり、堀越と奈緒子については「風」となっている。
 この「風」は宮崎アニメの特徴とされてきた「浮遊感」を支えるものであり、エコ思想が発露する際の「人工+自然」という奇妙なキメラ的アートの形象となっている。
 「キメラのアート」は、超自然的なトトロがなぜか人間的コマに乗る、ネコがバスになる、自然だと思われていたが実際には人造であった腐海の蟲たち、巨神兵、タタリ神、ポニョなど、宮崎アニメがエコ思想を前景化させる作品で必ず登場するもので、これらキメラのアート群が意味づけられたりすることであるいは直接的に物語に介入することで、物語は展開あるいは解決する。

 今作はこの「ふわっと浮く、跳ぶキメラのアート」の究極的な形象として航空機が挙げられ、そこに宮崎自身の傾倒、あるいは彼自身の飛行機を「美しい」と考える意識が重ねあわされている。
 堀越の作る飛行機で最も理想的なものはおそらく、奈緒子(=自然)へと自身をつなげてくれる紙飛行機だと思われる。だから、堀越にとっての夢である理想的な飛行機は、対立的関係の解消となっている。

 が、この夢は歴史的に避けがたく「呪われた夢」とならざるを得ない。今作は宮崎自身のエコ思想の根幹であった自然/人間の解消のための技術装置/作品であった「キメラのアート」が「呪われた夢」であることを吐露するものなのだろう。
 さらに、震災以降の日本でこの視点から本作を考えると、この「呪われた夢」には、マンハッタン計画を主導したオッペンハイマーにとっての原子力、そして「太陽を手に入れた」とされた日本の原子力導入を想起せずにはいられない。
 とはいえ、これは「呪われていること」を理由にその夢を断罪するものではない。また、美しさでもって「呪い」を美的に解消しようというものでもない。本作は、「国民的作家」のこれまで総括なのであり、それによってかろうじてその可能性が垣間見えるかもしれない「風」を立たせる試みなのだと思う。

と、結局まとまらず。