『共通文化にむけて』

編者・訳者の方々にお恵みいただきました。
ありがとうございます。

レイモンド・ウィリアムズ『共通文化にむけて』

共通文化にむけて (文化研究 I)

共通文化にむけて (文化研究 I)

レイモンド・ウィリアムズは、私が研究対象(の一つ)としているエドワード・サイードがその影響を自他ともに認める「作家」であり、さらにはG. C.スピヴァクが(彼女なりのひねくれた表現・態度が伴うことはあるにせよ)いたるところで最大限の敬意を込めて言及する思想家でもある。
ウィリアムズは「カルチュラル・スタディーズ」の祖とされることが多いわけだけれども、上記の意味ではいわゆる「ポストコロニアル研究」に多大な影響を与え、いまだに与え続けているといって間違いない。

では、ウィリアムズがPoCoに与え(続けてい)る影響とは何かといえば、私の興味関心から恣意的に抜き出せば1.個人的経験を如何にして表象するのかという問題とそれと「理論」との関係に関わる問題系、2.オルタナティヴなマルクス主義あるいは(おそらく本人がより賛同するであろう表現を用いれば)「オルタナティヴな社会主義」を思考する際の尽きせぬ刺激、の二つが挙げられる。
と思う。

1.
詳しくはダニエル・ウィリアムズがR.ウィリアムズの論集Who Speak for Wales?に寄せた序文を、あるいはD.ハーヴェイの「戦闘的個別主義と世界的大望」を参考にしていただきたいが、ウィリアムズはいわゆる「(批評)理論」と「フィクション」両方で書いてきた「作家」であったのであり理論のみでは到達し得ない議論をフィクションでも表象しようとしていたという点に注意した上で、その「フィクション」に、そしてもちろん「理論」にも、英国とウェールズの境界地帯(border country)で生まれ育ち独特の変化と社会主義に触れながら育ちケンブリッジ大の教授にまでなったという個人的な経験が書き込まれているということ、さらにはそれが彼の文化理論において大きな意味を持っているということに注意する必要がある、ということだ。
 個別的な経験が思想家の「理論」に大きな影響を持っているということは、ある意味では当たり前のことではあるが、「理論」として「使われる」際には往々にして見過ごされてしまうことでもある。これは理論的な限界を見出して「彼の時代の限界だ」だとか「彼の経験からしてしょうがない」などとエクスキューズを引きだすためのものではない。
 PoCo関連のフィクションや自伝、批評において自己言及的な著作が多いことは既に指摘されているし素晴らしい論考がいくつかあるが、脱植民地運動やその後の政治的混乱、資本主義との関係、グローバリゼーション…など社会が大きな変化に見舞われその中で社会を変えようとする際に、時にはやむを得ず、時には希望の源泉として行われる抽象化のプロセス(人権の擁護、人道性の確保、他地域との連帯など)が個々の経験をどのように含んできたのかあるいは排除してきてしまったのかを考えるとき、ウィリアムズの著作全体と彼の経験、ウェールズの文化の変化、ウェールズの労働運動の経験がどう扱われているかという視点はとても有用な材料を提供してくれるのだ。
 もちろん、これは私が研究しているサイードにとっても重要な点であったことは疑い得ない。パレスチナキリスト教系の裕福な家庭に生れながら子ども時代のほとんどをカイロでおくり、合衆国に渡って英文学および比較文学を専門としたサイードにとって「パレスチナ大義」を擁護することは、彼の危うい「パレスチナ人であること」とどうかかわっていたのか。そしてこれらの事柄と批評理論はどう連関していたのか。

Who Speaks for Wales?: Nation, Culture, Identity

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他者の自伝 ――ポストコロニアル文学を読む

他者の自伝 ――ポストコロニアル文学を読む



2.
 ウィリアムズは大学内でしか通用しないような専門用語を可能な限り排して日常的な語彙を用いて文化や社会を記述しようとした。それは凝固し当初の社会性や可変性を排除することで正当性を確保する専門用語にではなく、日常語彙にこそ変化の徴と成長の兆しを見出していたからに他ならない。と思う。この「成長」や「変化すること」は、マルクス主義の影響を大きく受けながらも「(別様の)社会主義」を論じ続けたウィリアムズの重要な特徴であり、ウィリアムズを読む際のむずかしさの原因の一つでもある。なぜならウィリアムズの著作を読む際には、
「なんだかすいぶんと回りくどい言い方をするな」→「あ、これって〇〇のことか!(〇〇=専門用語。たとえば「疎外」や「イデオロギー」など)」→「なぜこんなに持って回った言い方をするのか?」→「自分の引き出しにある専門用語ではとらえきれない変化や事象があるのかもしれない」→もやもや…
を非常に多く経験することになるからだ。そしてこの読書経験こそが彼の理論において重要な「コミュニケーション」、さらには「コミュニティ」へとつながる重要なプロセスともなっている。
 「理論の生起したときの苛烈さ」(サイードの言葉)を可能な限り読むためには、読者の現在において読者がその読書体験によって自身の立ち位置と自身の変化を体験するようなものでなければならないのだろう。可能な限り社会を正確に記述しそこから社会の変化の可能性を探るものが「マルクス主義」や「社会主義」なのだとすれば、それは「いまそれを読んでいるわたし」を俎上に載せることなしには読まれ得ないのだと思う。そしてウィリアムズの著作は明らかにそのように書かれているし、(すべての著作ではないが)いくつかの著作はそういった読書体験になるように書かれている。(たとえばLong Revolution)

Marxism and Literature (Marxist Introductions)

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The Long Revolution

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と、相変わらず勢いで突っ走ってしまった…。


最後に、『共通文化にむけて』から引用を。
「文化とはふつうのもの」の末尾から。

>> 
技術的な手立てはかなりむずかしいが、なによりむずかしいのは、わたしたちの頭の奥で自分たちが拠って立つ諸価値を受け入れることだ。つまりふつうの人びとが統治をおこなうべきだということ。文化と教育はふつうのことだということ。救ったり、とらえたり、導いたりする大衆(masses)などというものはなくて、むしろくらしが混乱を伴いつつ度外れに急速に拡張してきたなかで、そこに巻き込まれて群れをなして生きている人びとがいるということ、これである。物書き(writer)の仕事はひとりひとりの個人の意味にとりくみ、その意味をともに分かちあえるものにしてゆくことだ。これらの意味が広がりつつあるのがわたしには見える。その道程において、もたらされるべき変化は土地のなかに書き込まれている。そこでは、言葉は変わっても、声は同じままでいる。(三二)