主人公たちが消えていくお話

以前から読んでいる『資本論』がもうすぐ一息つきそう。

資本論〈第1巻(上)〉 (マルクス・コレクション)

資本論〈第1巻(上)〉 (マルクス・コレクション)

といっても第1巻の前半のみだけども。

マルクス初心者が何か大したことを言うことはできないのだけれども、一言で言えばとにかく奇妙な本だ。

貨幣論で幕を開けるこの歴史的著作は、登場人物である「人間(自由に行動する、主体としての)」たちの間での価値交換からお話が始まるのだが、考察が進むにつれてその主人公の姿が見えなくなっていく。正確に言うと、主人公の存在価値がどんどん薄められ、主体性は否定される。
つまり資本体制というシステムにおいて、その「機能」としてのみ存在するものとなってしまうのだ。資本家でさえ、そこには人間的な感情は読み込まれず「人格化した資本」と繰り返し名指される。

しかしながら、本書の議論が非人間的で現実から乖離した机上の理論書でないのは、あえて言う必要もないほど有名なことである。搾取される労働者や売春婦、こき下ろされる経済学者などが多く登場する。

しかしながらそれは本の冒頭に出てくるような主体としてではなく、すでにシステムの構成物となった存在として本文に召還されているように見受けられる。


つまり、本書は、肥大化し自立的サイクルを獲得したシステムと、それによってかき消された主体としての人間の痕跡とによって構成される理論書という側面(登場「人物」は無し)と、具体的な労働争議における理論的介入や既存の経済学に対する批判を行う(現実への介入が目的)という、異なる側面を内包していると言えるのだ。

この独特の世界観はどこからくるものなのだろうか。私には異様にする見える。
どうなんだろう?
社会科学系の本をあんまり読んだことないから、詳しくは判らんが。

まだ結論を出すには、当然ながら、至らないが、カントやヘーゲルの重要性のみでは語れない何かがあるような気がする。

1巻の後半を読んだら判るかもしれない。
今後に期待しよう。



ちなみに、思ったよりも面白い本だと思う。