音楽のエラボレーション

今さら感も甚だしいわけだけども、サイードの『音楽のエラボレーション』を読み始める。

音楽のエラボレーション

音楽のエラボレーション

一応、サイードの専門家ということになっているらしい自分にしては、恥ずかしながらずっと敬遠してたサイード唯一の本。

まぁ、率直に言うと、クラシック音楽のことはよーわからんわけで。

まだ、今日買って1章を読み終えただけなんだけど、一応、備忘録的に。

グールドを持ってきて音楽のいわゆる「世界内存在性」を語ろうとするのは「世界・テキスト・批評家」と同じ。ただ、本書でのグールドの扱いは「世界…」でのそれとは、ちょっと異なっているように見受けられる。「世界…」では「引きこもり」をやろうとするグールドを率直に批判しているように思われたけども、今回は彼の行為を一つのケースとして捉え、音楽を「脱領域的」に考えることの重要性を指摘するに至っている。もちろん「世界…」は文学批評理論に対する批判的考察であったのに対し、本書は文学批評理論の中で培ってきた考え方を「アマチュア」の観点で援用してみる、という試みであるらしいから、この相違点は当然なんだけど、ね。

ではこの第1章の面白い点とはなんぞや、というと、それはグールドの「引きこもり」、もしくは「何ものからの影響も受けない純粋な音楽のユートピアに拉致られたいという夢想」を、何とかして肯定的に、正確には、建設的な論点が引き出せるように読み替えたい、というサイードの意思もしくは欲望がそこにある点だと思う。
現代的な音楽の存在形態の本質的な場として、コンサートという状況に注目するサイードは、グールドが貪欲に求めた「漂白された音楽」が実はどう頑張っても位置付けられたlocatedものでしかありえないということを、そしてグールドが奮闘したその固定性からの脱却自体が、徴候的に現代音楽という場(時)に位置付けられてlocateしまっていることを、明らかにしている。だが、ここまでは基本的に「世界…」と同じなのだが、そこでは終わっていない。…気がする。

まだモヤモヤしているけども、サイードがグールド論を反復しつつ語りたかったことは、彼の後期の切実な人文主義擁護につながっている、ような気がする。


とりあえず、もう少し先を読んでみよう。