J.M. Coetzee ”Foe”について

いまだに、教員免許用の単位習得に四苦八苦してます。
その一環として、実は初めて、"Foe"読みました。

Foe (Penguin Essentials)

Foe (Penguin Essentials)

一日で、ざっと読んだだけなので、細部には触れられないけども、とても面白かったので、レポートの下準備も兼ねて、書いてみまス。

まず大枠として指摘しておかなければならないのが、この小説は「書くこと」だけではなく、そこにはらまれるwriterもしくはauthorの問題系に関する小説である、ということ。
その上で、「他者」としてtangueに象徴される言語(paroleもecritureも)の欠損を保持し続けるフライデーは、彼を理解し表象しようとするwriterやauthor(スーザンや(デ)フォー)の欲望を呼び込みつつもそれを決定不可能なまま宙吊りにしておく存在として描かれている。
たしか、遠い記憶を引っ張り出すと、Spivakはフライデーを「(決定不可能性そのものとしての)他者性の守護者」とみなしていた気がする。これはたぶん、正しいだろう。

ただ、この作品に集中し、考えてみると、もう少し細かく考えてもいいかもしれない。
たとえば、スーザンとフォーの「作者(であること)性」をめぐる対立は、漂着した島での生活をそれ単体で出版/おおやけに(publication)したいというスーザンと、ただの漂流物語としてではなく、当時の流行の「漂流者モノ」として(人食い族や海賊を登場させて)一般に人口に介し易い作品に仕立て上げたい、というフォーとの間の対立として理解できるのだが、これは体験した者とその告白を聞くものとの間の権威/著者性(authrity)の争いでもある。

そしてその対立は経験したものが経験を表象する、という行為と、告白を聞かされたものがそれを書くという行為の間に纏わる問題でもある。
だが、この前者と後者をきれいに分離し、前者をスーザンに、後者をフォーに、というふうにきれいに振り分けられるか、というとそうでもない。
二人とも書くことの困難さに悩まされている。


その困難を払拭するものとして、神託の降臨にも似た、インスピレーションの到来が語られているのだが、そこには連続性がある。男性であるフォーが書くためにはミューズとしてのスーザンが必要であり、そこでは二人のヘテロセクシュアルな性関係とは対比的に、書く行為を生む行為になぞらえられた上で、フォーが女性化されている。そして、スーザンが自分のペンに何か取り付いたような、自動書記めいたものを感じるときそれはフォーのペンとインクを通して得られるものであり、その意味でフォーがスーザンにとってのミューズとなっている。最初は「告白」に似た形での出版を考えていたスーザンは、フォーを待ち続け手紙を書くにつれて、このフォーとの円環関係にはまり込んでいく。


だが、この円環関係は完成し得ない。なぜなら、どちらの書き手にしろ、その二人にはどうしても表象出来ないものがあるから。それこそがフライデーの舌のナゾなのである。
お互いがお互いをミューズとして必要としあうこの倒錯した円環関係に、不可能性の楔を打つものとして舌=言語の欠如したフライデーの存在が据えられているのだ。


この構図自体は、Spivak的な、植民地主義的他者表象の欲望と、それの拒絶としての他者=フライデーという構図の中で理解することもできるが、それは広く、「小説」というジャンルの成立史とも重ねあわされている、と考えられる。
回想録に見せかけながらもその最終部分で対話での告白であったことが明かされる第1部、そして手紙形式から日記形式へと推移していく第2部、完全な小説調になる第3部、この流れは現在の「小説」という形式ができあがるまでのジャンル史をなぞっている。宗教的な告白から、漂流モノ・日記・手紙小説を経て、現在の小説へ、という流れ。
これは自分の経験について語る→自分の経験について語る振りをする→フィクションへ、という一連の流れを持っている。

そしてこの流れの中で公には言わないまでも「フィクション」という部分を含むことを自覚的にはじめたのが「漂流モノ」なのであり、その記念碑的作品がフライデーという人種的文化的他者を表彰していたことに大きな意味があったと考えられるのだ。
Spivakの彗眼はそれを鋭敏に見抜いており、それと植民地主義的意識との共謀関係(サイードの議論枠でもある)を暴露している。




あれ?
Spivakえらい!になっちゃった…。






ちなみに、先ほどの書き物史の中に、「夢」
を組み込もうとしたのがサイードのBeginningsの一部であり、それも、実は小説に読み取ることができる、って話をしたかったんだけどな・・・。