未来をどう「考える」か

ワークショップ「原子力と文学」、満員御礼で無事、終了いたしました。
ご参加下さった皆様、ありがとうございました。
そして、直接かかわって下さった先生がたに深い感謝を。


自分の発表があーだこーだは自分で処理するとして、それ以外でいろいろ。

なによりもブンガク畑ではない方々とお話する機会が持ててよかったです。
WSの質疑応答の際にも積極的に発言・質問していただけて、とも勉強になりました。
ただ、あまりしっかりと応答できていなかったところがあったので、それに関しては反省しきり。

そんなわけで、質疑・応答から思うところを。

・「3.11」なる呼称をどう考えるのか。
 おそらく9.11を想起させてしまうものであり、そうすることで「自分の経験」から遠ざけるような機能を、この呼称が持ってしまう、という問題意識だと思います。
 この問題意識はとてつもなく重要です。たしかにこうした抽象的な呼び名をつけるのはある意味記念碑化monumentalizeすることでもあり、忘却の開始であると批判することはできると思います。
 しかし、あの日とそれ以降に起きたことを完全に呼び表すことは不可能なのであって、正当な呼称を探す行為そのものは良いとしても、それを性急に求めるべきではない、とも考えます。むしろ、仮の呼び名であることを意識した上で、たとえいかなる呼称でらろうとそこから零れ落ちる経験や思いが多くあることに意識的であり続けることが重要なのだと思います。いずれにせよ、たしかに3.11はあまりにキャッチーかな、と。

・未来をどう考えるのか
 原発をどういう方向に持っていくにせよ、人類が経験したことの無いような気が遠くなるような年月を想定しなければならないことは間違いない。そうなると、未来のことをどう構想したらいいのか、と。
 これには正直、そうとう戸惑いました。「専門家じゃないんでワカリマセン。」と逃げることはもちろんできないし、かといって実際、理解できていない・知らないことが多いのも事実。そんなわけで、自分の畑から見出せるものがないか、考えてみました。
 とにかく、数直線的な時間意識、あるいは弁証法的なそれの意識をなんとかせにゃいけん、と。たとえば被災地の「再生」と「10万年後の未来」が持っている時間意識はh到底同じものとは言えないし、単純に東京で今構想する未来がほかの地と同様なものになるとは到底思えないから。
 だから、何よりも重要なのは現在を注視すること、かつ、その現在の圧倒的な混沌からはなれてあること。inかつapart from。
 そしてその中で「回帰return」としてやってくるべき新しい過去を「読み出す」こと。即時的・政策的レベルのハナシをするにはもう少し段階が必要ですが、いずれにせよユートピアディストピア的な未来ではなく、現在と過去の中に残滓としての未来を読むこと、が重要なのだと思いました。未来は先にあるのではなく、多分、現在に対して常に遅刻してやってくる、というような意識。


もろもろ考えることがあり、たくさん宿題を頂きました。感謝!