未来をどう考えるか 2

「未来」と「未知」が区別できるとしたらどうだろう?

「未だ来たらざるもの」と「未だ知らざるもの」は区別できるだろうか。
語源や単純な語意の点からすれば荒唐無稽かもしれないが、「未来」がかならずしも「未知」だとは限らないかもしれない、と考えたらどうだろうか?

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 開沼博さんの『「フクシマ」論』を読んだときの違和感は、『までいの力』を読んだときに、やっと認識できた。

「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか

「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか

までいの力

までいの力

 開沼さんの議論の根幹には、いままで外部、あるいは「中央」の目線から覗き込むように、ときには見下ろすように考察されていた原発立地地域を、下から見上げるように考察すること、そしてそのためにはその地域でそれまで生活してきた地元住民の「経験」を最重要参照点のひとつとする、という信念がある。たしかに、「中央」・「地方」・「原子力ムラ(=原発立地地域)」という3つの階層構造を設定し、そのやりとりの中で、如何に「原子力ムラ」が原発を「自発的に」欲望していくようになるか、という問題設定は非常に重要だし、「貧乏で可哀想な地方が、札束で顔を叩かれしぶしぶキケンナモノを受け入れていく」という構図に疑義を呈するという意味では、この論点は非常に重要だと言えるだろう。
 また、「中央」にも「原子力ムラ」にも「原子力=近代の最先端」というほとんど意識されない共通の憧憬を抱いている、という指摘も興味深い。
(ではなぜこの共犯関係がなりたったのか?という問いについては開沼さんはあまり関心が無いように思われる。またそれゆえに、敗戦→戦後→現在へといたる中で冷戦構造やアメリカへの一極集中という世界的文脈が、この共犯関係との絡みで考察されることはない)

 だが、私にとって最も気になったのは観察者たる開沼さん自身の閉域だ。「強権的な中央・お上を崇める愚かな地方」という構図を批判するための議論が、「反発・抵抗を試みつつそれに失敗し、自ら原発を求めるようになる地方」という構図になったところで、それは中央/地方の二項対立図式の外には出られていない。具体例として挙げられる佐藤福島県知事の事例がその典型だが、この構図では中央と地方の主導権争いというナラティブしか出てこず、「原子力=現代の最先端」の閉域の外部は構想され得ない。
 もちろん、数々の失敗や多くの事例から、楽観的な変革を夢想することに対して強い疑念があるのは理解できるのだが、批判する側が批判対象の閉域にはまり込んでしまっては、未来を語ることはできないのではないだろうか。

 「原子力=近代の最先端」という共通の基盤の上で行われた中央と地方の相克を見つめ、それを批判するならば、その共通の基盤からは外れたものを考える必要も、あるのではないか。

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社会科学の専門的議論、しかも修士論文と、ある村の取り組みを紹介するパンフレットを並置するのはこれまた荒唐無稽とも思えるが、それでもこのパンフレットは上記の共通基盤の外で構想されていた未来を鮮やかに見せてくれる。

とはいえ、その取り組み自体はそれほど古いものではない。単純な「近代の過ち/古きよき伝統の見直し」という構図ではないのだ。
『までいの力』によれば具体的な取り組みはさかのぼってもせいぜい1995年あたりからなされたものであって、「伝統的社会が近代に勝る」というナラティブにならないところが重要だろう。
 パンフレット内のあるエピソードが興味深い。村の困窮と向き合い、その解決を模索して最初にたどり着いたこたえは「スローライフ」だった。だが、それは村民の強烈な反対にあい頓挫しかけるが地元の言葉である「までい」に置き換えることで、そしてその語源を辞書などの助けを借りて再発見することで、村の方針は急速に固まっていったという。「新しいもの」でも「古いもの」でもなく、過去にあった可能性を現在に置きなおしてみる、という姿勢がここに見出せる。

 原発などの大型開発どころか「平成の大合併」すらも拒否し、自立を選んだこの村は、「中央」との鏡像的関係にはまり込んでいく「抵抗」すら遠ざけた、非常にラディカルな姿勢を持っていたといえるのではないだろうか。「少人数だから、小規模だからこそできた」と繰り返される文面からは、「中央」あるいは都会から超然と距離をとった誇りさえにじみ出ているように思われる。

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だが、この取り組みは3月11日の揺れとそれ以降の大揺れによって瓦解しそうになっている。
この村の取り組みは東京に住む私にとっては未だ来たらざるものだが、もはや未知ではない。私にとっての「今」には残念ながら決定的な形で、遅刻してやってきてしまったが。

これまでのこの村(や、他にもあるはずのたくさんの市町村)の取り組みを直視しないで、未来を考えることなどできるとは、思えない。