「原子力」の幻影と、「成長」神話の解体へ

そういえば、すっかり忘れてましたが、今年の5月初旬、3月11日の揺れとその影響をどう考えるか、ということで、ちょっとしたエッセイを書かせていただきました。

韓国のスユ+ノモというホームページに載せていただいた(先輩が韓国語に翻訳してくれました)ので、せっかくなのでこっちにも。
正直、3ヶ月以上も前のものですし、地震から2ヶ月も経たない状況下でいろいろテンションが高かったり、偉そうに大言壮語吐いたりしていますが、まったく改訂せずに載せてみます。
恥を忍んで。
スユ+ノモHP↓
http://suyunomo.net/?p=7782

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原子力」の幻影と、「成長」神話の解体へ

 第二次世界大戦直後から、アメリカとソ連がそれぞれ「兵器weapon」としての核開発を進め、それを隠蔽しつつ同時に「核による平和atoms for peace」キャンペーンを行ってきたことは、広く理解されているとは言えないにしても、多くの研究によって明らかにされている。特に、戦争における核兵器使用の唯一の被爆国としての日本で、これほどまでの原子力発電所の乱立を可能にしたのはこのキャンペーンの成功によるものだと言えるだろう。だがこのキャンペーンで実際に行われているのは「兵器」から「発電所power plant」への転用に際して「利用法の攻撃性aggressiveness in actual use」を排し、それを「クリーンな成長をもたらすもの」へとすりかえる言説上の作業であったといえる。「原子力nuclear power」が持つ物質そのものの危険性を兵器利用という利用法の問題へと移し変え、それを棄却してみせることで、「原子力」の危険性を馴致可能なものと位置づけたのだ。これは逆に見れば、「原子力」の「物質=問題そのものmatter」を捨象し、そこに「使用価値use-values」を意味付ける価値付与体系が作動していたことを印している。冷戦構造の下で駆使された「二枚舌」が使用価値による意味付けに終始することで物質そのものの危険性をその言葉巧みに言いくるめてきたのだとすれば、今回の震災に伴う原発事故で明らかになったのは、まさしく物質・問題matterとしての「原子力」であった。
 ここでは、私が考える「物質=問題そのもの」が放射線物質radioactive materialではなく原子「力power」であることが非常に重要である。この「力」とは、科学技術をそれまでのニュートン的物理学の外部へと誘う力であり、経済を環境破壊の弊害を伴わない「クリーンエネルギー」というフロンティアに導く力そのものであった。もちろん、実際には、発電原理そのものは従来の火力発電と同様の沸騰型エネルギー抽出構造から大きく進歩していないし、全くもって「クリーン」ではないことは明らかだが。したがってここで分析されるべきはこの外部=フロンティアへと導く「力」そのものに負わされているものがなんであったのか、ということになるだろう。
 この「力」が、低迷する現状からの突破口を作り出し、科学上あるいは経済構造上のフロンティアの想像的創出を可能にするべく求められた錬金術なのだとすると、そこにあるのは「成長」への憧憬だとは言えまいか。
 私の専門とする文学・文学批評は、この「成長」が経済や国家、個人のありかたと共に変化しつつ、小説という形式の中で連綿と連続してきたことを知っている。欧米圏の小説には、「教養小説(ビルトゥングス・ロマンBildungsroman)」と呼ばれる、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』からはじまり、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』、シャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』へといたる成長物語のジャンルがある。そこでは「成長」が目指す最終的な成熟の定義は変化しつつも、そこへと向かう単線的時間のイメージが共有されていた。また、エドワード・W.サイードを代表とするポストコロニアル研究・批評を経た上では、そういった個人の成長物語の裏に、完全にではないにせよ自らを不可視化しようとする帝国の経済成長への希求(植民地獲得とその保持)があることも指摘され得る。サイードの『文化と帝国主義Culture and Imperialism(1993)』はその好例と言えよう。

 ところで、今回の原発事故では「原子力」そのものが持つ危険性があらわになったのだが、それは「成長」の名の下に隠蔽されてきた暴力性および危険性の露見だと位置付けることができると先程述べた。だが奇妙なことに、原発事故を招いた今回の震災(地震津波)だけをとってみても、それが露見させたものも、実は「成長」の名の下に作り上げられてきた日本の構造的暴力であった。
 これは私自身の自戒と反省をこめて語らなければいけない事柄なのだが、電力の最大消費地たる東京に住む私は、その生産地=供給地が「東北」であることをすっかり忘れていた。これは電力に限ったことではなく、日本の近現代史を通して、東北をはじめとする「田舎」に食物や労働力の「生産者」あるいは提供者としての位置づけを与えてきたのは、紛れも無い日本の中心を自負する首都圏・東京であった。正確には、「成長」を至上命題とする日本が、構造的に必要としてきたのが「生産者」かつ搾取の対象としての「東北」=「田舎」であった、といえるだろう(都会と田舎の構造的関係についてはR. Williams, The Country and The City(1973)が有用な参照先になる)。
この構造的暴力のもっとも厄介なところは、「消費者」は「生産者」に対する恒常的な暴力行使を忘れてしまうことにある。前述したとおり端的に、私は今回の震災まで、電力の生産地でありそのリスクを一身に背負っているのが「東北」であることを忘れていた。これは私に限ったことではないだろう。電力に限らず多くの業種において滞りが出たのを見て、この構造をやっと思い出した、あるいは気付いた人が多かったことと思う。「東京」に住み、「東北」で生産された電力を使用することそのものが、そういった構造に無意識的に依存することではじめて可能な行為、もっと言えば政治的選択行為だったのだ、と。言い換えれば、この構造的な暴力構造の上で何事もなかったかのように延々と続けられていたのが「日常」だったのであり、その「日常」そのものが、知覚がほぼ不能な形で無意識的に行われていた「政治的選択」だったのだ。

 今回の震災と原発事故という危機的状況critical momentは、無関心なままで依拠していた構造的暴力をあらわにした。それは「成長」への憧憬によって求められ、それによって覆い隠されていたものであった。考察をすすめれば、現在の危機状況は今までの「日常」そのものの孕む暴力があらわになったのであって、平和な日常が突然、予想だにしなかった危機に突き落とされたのではない、ということが分かる。地震津波による物的人的被害は2ヶ月以上経過した今でも把握しきれないし、おそらく最終的には失われたもの全てを把握することは不可能だろう。そこからの回復・復興となると、もはや思考停止に陥るほどの膨大な量の問題が山積している。だが、いままでの暴力的搾取構造の上でお気楽に暮らしてきた私には、そしてその構造が見えてきてしまった私には、その構造への批判を行い、そこから立ち現れるかもしれない未来を構想するという義務がある。危機的瞬間(critical moment)を批評の瞬間(critical moment)へと転換すること。これは私の責任である。

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なんだか、偉そうですが、姿勢としては変わっていません。
まあ、とりあえずは口だけではなく、行動を伴わせます。