「デモ」について

9.11デモで柄谷さんの行ったスピーチをYoutubeから勝手に文字起こししてみました。
著作権上、問題があるかもしれませんが、デモでのスピーチであり、すでにYoutube等で閲覧可能になっていますので、たぶん、問題ないと思います。

柄谷さんの演説内容に諸手をあげて賛成するわけには(個人的に)いきませんが、それでもあの場でこれを話したということには意味があると思います。


* * * * * 以下、Youtubeから文字起こししたもの(抜粋) * * * * *

私はこの4月から反原発のデモに参加してします。
このアルタ前にも6.11デモで参加しました。
私がデモに行くようになってからいろんな質問を受けます。大概が知性的な質問です。

その一つは「デモで何が変わるのか、デモで社会が変えられるのか」というものです。
私はこう答えます。「もちろんデモで社会を変えることはできる。」
確実ににできます。なぜなら、デモをすることでデモをする社会を作れるからです。

考えて欲しい。
今年の3月以前に、日本には沖縄を除いてデモはほとんどなかった。それがいま、日本全国、今日でも多分100箇所以上でデモが行われています。その意味で日本の社会は少しは変わった、それは明らかです。
たとえば、福島原発の事故のようなことがドイツやイタリアで起こればどうなるか、あるいは韓国で起こればどうなるか。
巨大なデモが国中で起こるでしょう。しかしそれに比べれば日本のデモは異様なほどに小さい。
しかし、それでもデモが起こったことはすごい。救いであると私は思います。

デモは主権者である国民にとっての権利です。デモができないなら、国民は主権者ではない。たとえば韓国では20年前までデモができなかった。軍事政権があったからです。しかし、それを倒して国民主権を実現した。デモによって倒したのです。そのような人たちがデモを手放すはずがありません。

では、日本にはなぜデモが少ないのか。なぜそれは変なことだと思われているのか。
それは国民主権を自分の力で、闘争によって獲得したのではないからです。
日本人は戦後、国民主権を得ました。しかしそれは敗戦によるものであり、事実上、占領軍によるものです。つまり自分で得たのではなく与えられたものです。
ではこれを自分自身のものにするのにはどうすればいいか。それは、デモをすることです。

私が受けるもう一つの質問は「デモ以外に手段があるのではないか?」というものです。
たしかにデモ以外にも手段があります。そもそも選挙が。その他、さまざまな手段があります。
しかし、デモが根本的です。デモがある限り、その他の方法も有効になりますが、デモが無ければそれらは機能しません。今までと同じことになります。

さらに私が受ける質問は「このままデモは下火になっていくのではないか」というものです。
戦後日本には幾度も全国的な規模のデモはありました。しかしそれは長続きしなかった。今回のデモもそうなるのではないか、というわけです。
たしかにその恐れあります。マスメディアではすでに福島の事故は片付いた、直ちに経済復興に取り組むべきだ、というような意見が強まっています。
無論、そんなことはない。フクシマでは何も片付いていないのです。しかし当局やメディアは片付いたかのように言っている。
最初からそうです。彼らは最初から事実を隠し、大したことなかったかのように装ってきたのです。そしてある意味でそれは成功しています。多くの人たちがそれを信じている。信じたいからです。
そうしたら、今後、反原発のデモが下火になっていくことは避けられないように見えます。
しかしちがいます。福島原発事故は片付いていない。
今後もすぐには片付かない。むしろ、今後に、被害者の病状がはっきりと出てきます。また、福島の住民は永遠に郷里を離れることになります。つまり、われわれが忘れようとしても、またじっさいに忘れても、原発の方が執拗に残る。それはいつまでも続きます。原発が恐ろしいのはこのことです。それでも、人々はおとなしく政府や企業の言うことを効いているでしょうか。そうなれば日本人は物理的に終わりです。

だから、私はこう信じています。
第1に、反原発運動は長く続くということです。
第2に、それは原発に止まらず、日本の社会を根本的にかえる力となるだろう、ということです。
みおなさん、粘り強く戦いましょう。

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とりいそぎ。