followすること 王兵の映画について雑感

渋谷オーディトリウムで「王兵ワン・ビンWang Bing)特集」に行って来た。
http://a-shibuya.jp/archives/1413

今まで王兵作品で見たことがあったのは『鉄西区 第1部』のみであったので、今回の機会も含めて王兵作品で見たことがあるのは以下の通り。

鉄西区』(1999−2003)
 第一部RUST
 第二部REMNANTS

鳳鳴―中国の記憶』(2007)

『石炭、金』(2009)

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以下、物語の筋という意味で、ネタバレがありますので、ご注意ください。

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おそらく王兵作品の特徴の一つは「follow 追う」ことにある。

 『鉄西区』では、恐ろしいほどの時間をかけて、中国のある巨大重工業地帯の衰退を描いていく。日本軍が作った重工業地帯が、1990年代以降、急速に衰退していくのだが、王兵はその衰退のありさまをただただ写していくのだ。とはいえ、王兵が映し出すのはそういった俯瞰的な「歴史」ではない。いわんや衰退し実際に閉鎖され錆び行く「工場」あるいは強制退去の憂き目に会う「街」そのものでもないように思われる。では彼が映し出そうとするのはいったい何なのか。
 『鉄西区』第一部では、閉鎖直前の活気ある工場の様子がひたすら写される。カメラは主に休憩室でイスに座り、休憩中の労働者の話に耳を傾ける。彼らが風呂に行くとなれば、全裸で風呂場に向かう労働者たちのあとを、文字通り裸の労働者の尻を追いかけて行く。事実、前半では労働者の裸の尻を劇場の大画面で観続けることになる。その後、工場が閉鎖され、いまや人気も無く当時の活気を忘れ去ってしまったような休憩室や風呂場、精錬工場を、王兵のカメラは今度は、何か物寂しげにフラフラと歩き回る。いくつもの部屋を抜け、元休憩室を抜け、元風呂場を抜けるそのカメラは、まるで当時の人物たちを捜し歩いているように見える。それと同時に人影の消えた工場を丹念に歩き回る王兵のカメラは、人影の消えてしまったことに対する寂しさよりも、むしろ人気が無くなり稼動できなくなってしまった工場そのものに寄り添っているようにも見える。
 第二部では、そんな鉄西区の労働者が住むバラックと呼んでも差し支えのなさそうな家屋がしめき合う街が映し出される。そんな街の中でもお洒落に余念のない、まさしく青春真っ盛りといった青年たちのあとをカメラはひたすらついて回る。時にはある青年がある少女への恋心を友人に打ち明けるシーンに出くわし、あるときには路上で県下をする少年たちに見入る。そしてそのたびに辻々で周りを見渡し、街を物珍しそうに眺めている。青年たちがけんかをして行動を別にすれば、誰についていったものかと逡巡さえしている。そして後半では企業の(強制的)移住要請に揺れる街の人々を丹念に写し、ついには廃墟と化すまで街を写し続ける。

印象的なシーンがある。
真冬の街、王兵は街の人を探して雪道を手持ちカメラを抱えてひたすら歩く。スクリーンに映し出されるのはほとんど瓦礫と化した雪に覆われた町並みと王兵の息遣いだけだ。そんな時、遠くに人影が見える。カメラはその人影を見つけて追いかけるが、追いつくことができず、追うのをあきらめて小さくなっていく人影をただ見つめている。

 おそらく、王兵が映し出そうとしているのは、「歴史」や「物語」ではない。また、そういった時間の流れの中での「工場」や「街」の変化でもない。さらにはそこで仕事をし、暮らす人々そのものでもない。王兵が映し出そうとするのはそういった「歴史」・「場(工場や街)」・「人」が区別を失い溶け合っている様であり、そしてそれがバラバラにされて失われていく様なのではないだろうか。
 それを可能にしているのはひたすら「追いかける」という王兵の際立った手法だ。彼は俯瞰的に歴史を語るのではなく、かつ、人間そのものに肉薄するのでもなく、時には冷徹とさえいえるような距離間でひたすら人や工場や街を写し、その後を追いかけて歩きまわる。労働者や街の住人が語り合い時にはカメラに向かって語るそれぞれの人生や人間模様はそのほとんどが「物語」として完結しパッケージ化されることなく、それぞれの「場(=工場、街)」が消滅する瞬間に見えなくなってしまう。「場」の消滅とともに、つまり先程の3つの溶け合いが瓦解した瞬間に「追う」ことを断念しているように思われる。そしてこの身振りは、同時に、この3つがバラバラに分離されてしまうことの痛みをこれ以上ないというほどに雄弁にあらわしているのだ。

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鳳鳴―中国の記憶』は一人の女性の半生のインタビューをひたすら固定カメラで写しきった、ということが強調されることが多いようだが、実は彼女がその話をする前、映画の冒頭で、カメラは彼女に案内されて彼女の住まいに行くまで、彼女の後をついて歩いている。どの曲がり角でどちらに曲がるのかも分からず、カメラはひたすらこの老女の後ろをついて歩く。凍結した路上の氷を避けて歩くために、直線道路であっても、鳳鳴がどこに向かって歩いていくかは、それこそ彼女の後をひたすら追っていくことでしか分からない。
 作品の大部分は鳳鳴の半生にひたすら声を傾ける固定カメラの視線で構成されているのだが、この冒頭部分が暗示するように、カメラは今度は移動ではなく、彼女の話をひたすら「追う」のだ。回想シーンも歴史的背景の解説も写真すら、全く無い。ただただ彼女の後を追い続ける。ただ、不思議なことにこの映画を後から思い出してみると想起されるのは、鳳鳴が雪道を朦朧となりながら歩く場面、あるいはついに見つけられなかった夫の墓の近くと思われる場所で娘たちとともに嗚咽を漏らす場面、それらがひとつの「シーン」として思い出されるのだ。クロースアップもほとんどせずに、こちらからの質問も全くしない、ひたすら「追う」という王兵は翻って彼女の言葉の強さを余すところ無く提示しているし、電話やトイレで語りが中断されるシーンを移すことでそういった「語り」と内容としての「物語」が、彼女にとっての現在の生そのものであることをあらわしている。
 ここで王兵が映し出すことに成功してるのは、「歴史」を見据える一つの視点でも、あるいは女性の生そのものでもなく、歴史も物語りも彼女の人生も全てが溶け合い、分離不可能となっている様であるように思われる。物語をその語り部から区別して引き離すことも、歴史に当てはめることも不可能になる、そんな地点をこの映画は指し示しているのだ。

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王兵は決して俯瞰的立場に立ったり、声高に政治的立場を叫んだり、あるいは対象を挑発したりしない。ひたすら後を着いて周り、執拗に追い掛け回し、その相手が何かを語るときにはひたすらその言葉を追う。決して対象を上からcover(取材する=覆い隠す)することはせずに、まさしくfollow(追いかける、理解する)するだけなのだ。そしてこの一見とても受身passiveに見える彼の描き方こそが、かえって映し出されるもの(者・物)たちの強烈な受苦passionを浮き彫りにしているし、同時に王兵の情熱をも表している。

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もうすぐ、彼の最新の劇作品が公開される。