理論の「一生」について

明けまして。

から、いきなり去年の話から。

昨年、『石炭の文学史』を上梓された池田さんの勉強会に行ってきた。

(このご著書、あまりにも大著なうえ高額なので貧乏学生兼貧乏講師の私には「高嶺(値)の花」のままで、まだ拝読できていません。以下の勝手なコメントはその上で、講演内容から私が勝手に考えたことを書いています。ご了承ください。)



「炭坑労働と原発労働――「闇の中」の労働の歴史」と銘打たれた刺激的な講座だった。
非常に刺激を受けたので、せっかくだからシェアを。まずは、私の専門とは直接的には関係ないものの、私は重要だと思った池田さんのご指摘を。

原発とその労働に関しては全くの素人なので、石炭の話をします、という前置きから始まった池田さんの口ぶりはそれでも炭鉱労働とそれにかかわる「文化」を語りつつも、まっすぐに原発労働の問題点を見据えたものだった。
例えば、北炭の下(孫?)請けであった労働者調達者たちは、東京駅付近で「蛸釣り」をやったという。
地方で困窮し身一つで上京してきた労働者たちに運賃を「貸し与え」、北炭を割のいい労働現場として紹介する。北炭に到着した労働者たちは「貸し与え」られた事実上の借金に縛られ、奴隷状態で文字通り死ぬまで働かされることになる。これは空腹が至ると自身の足を食べるという蛸の逸話にひっかけた命名なのだが、「自身の労働力以外売るものが無い存在」たる賃労働者の有様とそれを「釣り上げる」様をよく表した表現だと言えるだろう。
これとよく似たリクルート原発作業員調達の現場でよく用いられていたのだと言う。過酷な炭鉱労働に労働力を引き入れそれを最大限に利用するという労務管理方法はすぐれて日本の近代的な労務管理システムであったのであり、それが今現在の日本へも脈々と引き継がれているのだという。
 その事実を体現するのが、池田さんによれば前田一なる人物である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E4%B8%80
戦前は北炭の労務管理で頭角を現し、戦時中は北炭への強制連行を指揮し(注:この部分は私は未確認)、戦後は労働運動と対峙する最前線で活躍し、日本経団連の初代専務理事にまで上り詰めた。前田の存在から炭鉱での労務管理と戦後の労使協調路線、そして現在の雇用問題までに至る強力な補助線が引けるのかもしれない。

 とはいえ、私が最も刺激を受けたのは池田さんの上梓した『石炭の文学史』についてのご発言だった。
 端的に言ってしまえばそれは「なぜ『石炭の…』で、『炭鉱の…』ではないのか」という問いとそれに対する回答に集約できる。一言でいえば、『炭鉱の…』では炭鉱労働の美化とノスタルジアに抗することが難しいし、なによりもそれは「全体」ではないから。「炭鉱」ではなく「石炭」により「全体」を見据える方法として、池田さんが提示するのは「石炭の一生」という視点であり、この論じ方にとても刺激を受けた。
 石炭の一生とは、石炭なるものが生成され採取され流通され消費されその役割を終えさらにはその社会的性質により生み出したものがその後の社会にいかに接続されていくか、までをも含む眩暈を起こすほどの広大な視野を持った視点。だから厳密には古代の植物が炭化する過程をも含むわけだが、池田さんは(当然ながら)人間の手に渡るところから(つまり「一生」の誕生期ではなく、いわば「幼少期」から)議論を始めている。この視点を採用すると、その見るべき範囲は最低限に見積もっても以下の通りとなる。

石炭掘削のロケーションを決める人々(「斤先請負」)から掘進、坑木・枠組み作り、採炭(「先山」の労働)、坑内運搬(「後山」)、選炭・洗炭作業、地上での運搬/ボタ捨て、河川運搬(「川筋者」)/鉄道輸送、荷役(「陸仲仕」)、荷役(「沖仲仕・docker」)、海上輸送、荷役、地上輸送、工場・発電所など、「公害」、後遺症/寄場(大型開発への労働者の移動、原発労働)

石炭の流通でも消費でもない「一生」を追うことにここまで広く社会を見通す構図を描くことができる。
 だが池田さんの慧眼はこの、言ってしまえば大風呂敷」を広げたことにあるのではない。森崎さんが言うように、掴み取るべきは社会存在の向こうに見える「人間」なのではなく、人間そのものとの対自においてこそ浮かび上がるその人間の社会あるいは「全体」である*1。池田さんの慧眼はこの広大な視野を「文学史」でもってとらえ返そうとしたことにこそあるのだと思う。
 これはもちろん「文学(史)」こそが唯一「全体」へ到達できる、と言いたいわけではない。「人間を(想像し)描く」という営為の力強さとそれに対する強烈な信頼感を、ここに感じられるのだ。石炭の一生にかかわった文学を読み解くことは、人の生及びそれと不可分な労働を描くことであり、その固有性こそが社会の「全体」へと跳躍する「等価性」に至る想像力を涵養できるのだと思う。



 この「一生」という視点に刺激を受けて私が夢想しているのは「理論の一生」という視点。さくっと言い換えてしまえばいわゆる「歴史化」に近似したものだと考えているのだけども、それとは幾分かことなったものだと直感している。「直観」、要するにまだ言語化できていない。
 が、例えば抽象度の高い「理論」と個別具体的な「自伝」の関係について考えると、普通の関連性は「理論を理解するために「自伝」あるいは「伝記(的情報)」を参照する」という、あまり好ましくない読み方を想定でいるけども、そうではなくてこの見せかけの抽象度の高さを世俗化し歴史化する上で、理論テクストが必然的に要請する理論の「自伝」を考えられないだろうか。
 たとえばサイードについて。
 『オリエンタリズム』の序文でサイードマルクスの「ブリュメール18日」を引用しているのだが、これはスピヴァクにツッコミを入れられたことが良く知られている。サイードは「表象/代表」の問題をマルクスの議論に則する形では理解し得ていない。要するに「誤読」である、と。この指摘はそのものとしては正当なものだと思う。だが、「誤読」であれ、それを踏み台に跳躍し獲得された「理論」そのものはこの誤謬あるいは瑕疵をもってして完全に棄却されるべきではないだろう。もちろんスピヴァクにもそういった意図はおそらく全くない。だがそれ以上にこの「誤読」が「理論」の生起する瞬間に避けがたく要請されたものであったとしたらどうだろうか。
 サイードは『オリエンタリズム』の序文において、その執筆時期を1975~76年あたりだったと述べているのだが、その前年、サイードは1974年のCommentary誌上においてまさしくこの「代表」に関わる点において「オリエンタリスト」との論戦を行っている。『オリエンタリズム』が一つの「理論」を形成したものであるとするならばその誕生の際にあったこの出来事を考察しておく必要があるのではないだろうか。これを通してこそ、サイードの「アラブ人」あるいは「パレスチナ人」であるという困難を彼個人の経験と彼個人の超人的優秀さにのみ帰することなく、彼の困難を歴史的に位置付け「共有」することが可能になるのではないだろうか。おそらくこれこそが、サイードが「旅する理論」の中でルカーチの物象化論に見出した「苛烈さ」なのではないだろうか。
 「理論」に付きまとう「高い抽象度」、「難解さ」を読み解くことのみに専心するのではなく、そこに見出されるある種の「誤読」や」「誤謬」を「理論」の「一生」に組み入れてこそ、それを歴史に開きつつその苛烈さを読者の現代に召喚することが可能になるのではないだろうか。





的な博論ってアリなのかな…。

*1:詳しくは森崎和江『奈落の神々』を。