対位法と弁証法

ゼミでSusan Buck-MorseのHegel, Haiti, and Universal Historyを読む。

Hegel, Haiti, and Universal History (Illuminations: Cultural Formations of the Americas)

Hegel, Haiti, and Universal History (Illuminations: Cultural Formations of the Americas)

西洋思想における至高の理想原則としての「自由」および「奴隷」のレトリックが、その重要性を増していきながらも、その裏側で実際の植民地や奴隷問題が深刻化し制度化されていく様子を描き出しつつ、ヘーゲル批判を行う。
ヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」にいたる過程には当時の大事件であるハイチ革命が存在していただのであり、その具体的な歴史事象が彼の議論のおくに存在する大きな可能性を指摘する。
最終的な批判対象は『歴史哲学講義』に典型的に見られるヨーロッパ中心主義的な発展史観と、その目的論的史観の最終目標たる「自由」そのものだといえる。
目的論的発展史観でもって世界を区分けし、「自由」あるいは「意思」なる基準でもって展開するヘーゲルの議論に対して、Buck-Morseは、実際にはその時代区分の地理的境界を横断する形で交流あるいは相互影響関係が常に存在しており、ヘーゲルの時代においてもそれが例外ではなかったことを論証する。
たとえば実際には一枚岩とはほど遠かった植民地でのフリーメイソンの果たした役割と、ハイチ革命におけるヴードゥー教の果たした役割にそれぞれ注目し、そしてさらにそれらの相互関係を論じる。それはヘーゲル的な時代/地理区分が崩壊する瞬間でもある。
そして、そういった合目的的な歴史記述ではない歴史記述の可能性としての「Universal History」を構想。
ただここでのUniversalとはイデア的なものではなく、むしろ常にUniversalたるために書き換えられ、更新されることを必要とし、そうされることでしか想像されえないもの、であることが重要。そしてこれは「普遍」というよりは「全称命題」というときのそれに近いイメージのuniversal。

ところで、派手な「Universal History」という語に眼を奪われがちだけども、Buck-Morseの議論の中で重要なのは彼女独特の「Porosity(多孔性・透過性)」という概念。これは弁証法に至るような二項対立あるいは区分の境界線そのもに付与される性質なんだけども、イメージとしては透過性の「軽石」みたいなものだと思われる。つまり、厳格に区分されても、それが交じり合ってしまうという議論は何一つ目新しくないが、それでハイブリッドになるのではなく、その境界線そのものはビジブルな形でのこりつつでも混ざり合い=相互侵食は起こる、というイメージが面白いなと。だから、彼女の場合、弁証法という語は用いつつもそれが向かうのは統合(Synthesis)ではなく混ざり合いあるいは絡まりあいとしての混交Syncreticismとなる。

ここまでくると弁証法という語にこだわり続ける必要性も良く分からない。
…というところまで考えて、そういえば、この路線で考えると、サイード的な「対位法」って目的論的な「弁証法」に対するサイードのギリギリの交渉の結果の述語なのかも、と思い至る。
R. WilliamsやLucaks、Gramsciなんかの影響を色濃く受けながらも決して弁証法をその手法として用いようとしなかったサイードなりの「弁証法」が「対位法」なのかもしれないな、と夢想。


ところで、「対位法」といえば全く別文脈で、かつ、関係ないけど面白そうな本を紹介してもらう。
Fernando Ortiz、Cuban Counterpoint

Cuban Counterpoint: Tobacco and Sugar

Cuban Counterpoint: Tobacco and Sugar

まだしっかりとは読んでいないものの、サイード以前に「対位法」なる語彙を大々的に人文学研究で使用していた、そしておそらくサイードが参考していない例。
ちょいと面白いな。
今後が楽しみ。