柄谷の≪他者≫

なぜか今さら、柄谷さんの探求1を読まされる。

探究(1) (講談社学術文庫)

探究(1) (講談社学術文庫)

マルクスその可能性の中心』から引き続く独自の『資本論』読解を、「暗闇での跳躍」というモチーフのもとで西洋思想あるいは哲学の独我的あり方の批判へとつなげる手つきは、それ自体跳躍に見えつつもないが、お見事。

マルクスその可能性の中心 (講談社学術文庫)

マルクスその可能性の中心 (講談社学術文庫)

柄谷にとってはそこらじゅうがロードスといった感じ。

とは言え、現象学や日常言語学派の至高の出発点を独我論的と断じつつ、そこで排除されている≪他者≫への思考こそが重要であり、その意味でウィトゲンシュタインを倫理的とさえ呼ぶ柄谷さんの≪他者≫とは実際、何なのか?
ポスコロにどっぷり浸かっている自分としては、ここでの≪他者≫は結局はただの概念装置であるようにしか見えない。
確かに実際には「暗闇での跳躍」であるはずの交換行為や言語行為を、閉域内での予定調和的なやり取りだと断じ、さらにはそれを積極的に誤認することで平静を装う資本家や哲学者をたばにしてやっつけるにはこの≪他者≫は非常に有用だろう。

だがマルクスウィトゲンシュタインキルケゴール、果ては仏教思想まで、縦横無尽に跳ね回る柄谷にとって≪他者≫はまさしく「跳躍」のための踏み台にしか見えない。

個々の思想家の文脈を捨象し、神出鬼没にさえ見える彼の論旨と歯切れのよさは確かにめまいをおこさせるものであり、瞠目に値するが、それでも、やはりそこで持ち出して来る概念が≪他者≫なる語であるのは問題ではないか?単なる「外部」でもよかった気もする。

多様な思想や概念の間を行き来する柄谷を支え、いわば蝶番の役目をする≪他者≫なる語は、しかし、果たして彼の言う「倫理」への道程を照らしてくれるものなのだろうか?

個人的には『マルクス…』のような議論の方が好きかな。
あるいは『トランスクリティーク』の「視差」といった概念の方が。

トランスクリティーク――カントとマルクス (岩波現代文庫)

トランスクリティーク――カントとマルクス (岩波現代文庫)