ドキュメンタリー映画と、監督の「迷い」の可能性についてぶつぶつ

『沈黙を破る』などの作品で知られる土井敏邦監督の最新作『ガザで生きる』の作成中間報告&ダイジェスト版上映会に行ってきました。
監督は「まだ、作成途中で、これからどんどん改良していく」とおっしゃっていましたが、せっかくなのでレビュー。
http://doi-toshikuni.net/j/info/20110108.html

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監督は今回の作品の作成意図あるいは狙いを、「俯瞰的な、マクロな視点でガザの、パレスチナの事実をどうしても伝えたい」と述べ、自身の作成途中の映画を「地味」あるいは「マニアック」だとした。
たしかに、パレスチナ人人権活動家ラジ・スラーニへの単独ロングインタビューが延々と冒頭の1時間かけて流され(実際にはまだすべては観ていませんが)、そのあとに2008年ガザ空爆へといたる流れを全部で5時間かけて流されては、正直つらいし、分かりやすいセンセーショナルな映像もCGも再現映像もないインタビュー中心の映像では「地味」とか「マニアック」と自嘲気味にいいたくなるのも分かる。

これは、現場を何よりも大事にするジャーナリストでもある監督が、前回の映画のおかげか、ガザ入りを禁止されてしまったという現状への歯がゆさから出た言葉であろうし、また、爆破場面や大量の流血シーンなどを極力避けてそこの人たちの言葉に焦点を当てつつも、同時にマクロで直線的な歴史経過を追おうとする監督自身の手法に関する迷いのあらわれでもあろうと思う。

しかし、土井監督の映画監督としての凄みは、迷いつつもそれでも作品を作り上げようと専心し、その迷いそのものが映像作品の中で他では観られないような強度を放っているという点にある。

印象的なシーンが2つあった。

1つは、自身のイチゴ畑をイスラエル軍戦車に蹂躙され、修復不可能となった自身の作物(イチゴ)の前でその農場主が呆然と立ち尽くすシークエンス。イスラエルは彼のイチゴ畑を破壊した理由を公式には「安全保障上の理由から」としているようだ。
呆然と立ち尽くし言葉を失う農場主をカメラは見つめ、そしてゆっくりとパンアウトし、破壊されたイチゴ農場の惨状を映し出そうとしたその瞬間、フレームアウトしていた彼が突然怒りをあらわにし、とてつもない勢いでまくし立て始める。
(ビニールハウスの残骸を掴んで)「これが兵器だとでも言うのか!?これが爆弾だとでも!?」
観ている側は突然怒りをぶつけられて呆然とする。
 「自身の財産が破壊され、それを目の当たりにして茫然自失となる」という映像は、パレスチナのドキュメンタリーに限ってもごまんと存在する。あるパレスチナ人映画監督が「最近は、パレスチナに自称ドキュメンタリー監督がたくさん来る。なぜかって?「悲惨な現実」がたくさんそこらじゅうにころがっているからさ」と言っていたのを思い出した。
 多くの悲劇は、ともすると、個々の苦しみや痛みが統計的な数値に書き直され、絵的な類似性から「よくある」映像へと取り込まれてしまう。
 このシーンのカメラも、言葉を失った農場主の沈黙を見据えた後に、イスラエル兵の暴挙を「記録」しようと農場を映そうとするのだが、カメラが自分から離れ、農場を映し出そうとした瞬間に、その農場主は叫び出すのだ。彼のシークエンスは、私には彼が「「記録」でもよくある構図でもなく、俺の、この今のこの俺の話を聞け!」と言っているように思われた。


もうひとつは、ハマスに心酔し武力闘争を決意した青年へのインタビュー。
彼は目出し帽を被り、腰には拳銃と手榴弾、左手には小銃を持って、ソファーに座っている。ステレオタイプそのままの彼にインタビューをしながら、カメラは腰右側のガンベルトからゆっくりと向かって右にパニングし、腰のベルトをゆっくりと過ぎて左手側の小銃に至ると今度は上に向かい、小銃をゆっくりと銃口に向けて上りつつ、目以外では唯一むき出しとなった彼の手を映す。そのまま銃口を映すに至るのかと思いきや、カメラは銃の切っ先までは至らす途中で左に流れ、彼の目を、どっしりと確信に満ちた彼の態度と言葉とは裏腹に、せわしなく動く彼の目を見つめる。
 小銃は革命やレジスタンスにおいて弱者の武器としばしば言われる。特に旧ソ連カラシニコフ銃(AKシリーズ)はヴェトナム戦争で注目され、パレスチナでも解放闘争のシンボルとさえ言われることもある。
 だがカメラはそういった小銃でなく、典型的な「テロリスト」の中に青年の若々しい手と、せわしなく動く目をあくまでもとらえようとするのだ。


 一つ目のシーンは、マクロな視点の重要性を自覚しつつ個々の人々の物語に向き合おうとする監督の葛藤あるいは逡巡を見事に表したものであるし、二つ目のカメラワークは、はステレオタイプそのものの中に何とかパレスチナ現地の生を読み込もうとした監督の情熱があらわされている。
 一つ目は、マクロで俯瞰的な視点の獲得に向かおうとする監督の意図に大して、フレームアウトさせられること抵抗していると観ることができるという点で、監督の意図を突き崩すものであり、二つ目は監督の作者としての強さが表れている。
 つまり、この作品の中のいくつかのシークエンスには、監督の意図という意味では多くの異なったレベルの映像が含まれていると言えるのだ(気がする)。これは「現場」の強烈な強度に圧倒されながらも、それでも日本人という外部の目線からマクロで俯瞰的な視点の獲得を目指す、という監督の意図における相反する側面が表出している、とも考えられる。もちろんこの側面は見様によっては監督の作者としての力量不足ということになるのかもしれないが、果たしてそうだろうか?
 20年以上にわたってガザを撮り続けた日本人が、マクロな視点の獲得の必要性を痛烈に認識し、その意図から突き動かされつつも、同時に個々の証言の強度に押されて抽象度を上げられずにいる、というこの態度は、果たして監督の力量不足なのだろうか?私は、この迷いが編集過程で切り捨てられずに「作品」の中に残っていることに感動した。この監督の迷いこそが異なった強度を持つシークエンスを一つの作品の中に共存せしめたのではないか?この真摯な逡巡こそが、土井監督の凄みなのではないだろうか?


 ここ数年、「ドキュメンタリーとは何か?」とずっと考えている。たしかに、監督能力が高く、映像をその力量で持って美的に昇華(「解決」ではない)する監督も存在するし、そういった監督も私は大好きだ。パレスチナで言えば、私の好きなミシェル・クレイフィはこのタイプだと思う。しかし、「良いドキュメンタリー」とはこの側面だけでしか見出せないのだろうか?土井監督の作品は、また違ったドキュメンタリーの可能性の方向を指し示しているのかもしれない。





 もちろん、なんてったってまだ未完だし、確定的なことは言えないけども、完成が非常に楽しみに作品。
 監督は「地味」で「退屈」だと語っていたが、もっと好きなように作って欲しい。たくさん迷いつつ。それでこそ土井監督作品、だと思う。