揺れ

今回の大きな揺れに関して思うことを。

まず、単なる「震災」で片付けるにはあまりにもコトが複雑すぎる。
今日のシンポジウムで小熊英二さんがかなりきれいに整理なされていたけども、やはり「東北」はある時期から日本の食糧や電力の供給地になっていたのであり、そういった意味で「植民地的」という形容が当てはまってしまう立場に置かれていた。
構造的な搾取関係が常態化していた中でのこの災害は、「首都圏」がいかに「東北」に依存し、かつ、それを不可視化していたかを明らかにした。
この依存+不可視化こそが地震津波の多い東北三陸沿岸に原発を作るという暴挙を可能にした。
歴史的に積み上げられてきた「東北」の位置づけに加えて、グローバル分業化にともなう労働の国外調達の増加によって、「東北」を原発「候補地」に仕立て上げたのは他でもない「首都圏」であった。

その「首都圏」では、揺れとその後のパニックに伴い、電気の使用や物資の購入などほぼあらゆる消費生活がその様相を一変させた。
これは全ての消費行動が震災によって政治的な性質を帯びるようになったのではなく、もともと恒常的に政治的であったものが隠蔽されていた、ということがあらわになったことを示している。もはやこれを無視して以前と同じ生活をすることはできない。…と思っていた。

だが、これを無視して以前と大きく変わったように見せつつ揺れ以前どおりに生活していく方法を日本はすでに発見している。
「一つになろう日本」
この言説こそが、首都圏/東北の格差構造を隠蔽する。今までの依存/搾取関係を不可視化し、切捨ての準備さえ始めている。
また、外国人労働者が緊急帰国してしまい収穫作業の困難な農家が多く存在していることはあまり大々的に報道されない。
「自粛よりも復興を見据えた消費を」
これが、生産=「東北」、消費=「首都圏」の構造を再強化することになる。
ここには「消費(商品(労働力を含む)の購入)は等価交換によって成り立っている」という暗黙の前提があり、消費が搾取構造と接続される経路はあらかじめ切断されている。

では、私は、何をなすべきか。
私は、文学批評研究者の端くれとして、サイード読みの端くれとして。
私は、アマチュアなりに音楽を志すものとして。

何ができるか、とともに、何がなされるべきか、も考えなければ。