Buck-Morss, Dreamworld and Catastroph

個人的には、(スピヴァクと並んで)いま最も信頼している批評家のひとり、スーザン・バック‐モース。
信頼の根拠はシンプル。
「文化」の混淆的なありかたやその歴史に対して非常に真摯でありつつ、同時にラディカルでもあるから。

そのバック‐モースのDreamworld and Catastrophe

Dreamworld and Catastrophe: The Passing of Mass Utopia in East and West

Dreamworld and Catastrophe: The Passing of Mass Utopia in East and West

一口に「東西冷戦」や「冷戦対立」などと言われる時期の文化と政治を(主に当時のソ連の)文化テクスト(文学、建築、映画、など)を通して読み解き、双方を「massの夢世界」に突き動かされた存在として紐解いていく。
事後的に現在を投影した当時を見るのではなく、当時の言説をそのまま再現前させる(原理的には不可能)のでもなく、現在の視点から可能な限り当時の言説空間を読み解き、文化表象や政治言説の再配置を試みる。
そこから見えてくるものは、「大衆主権・大量清算(消費)・大衆文化」というmassの夢だ、という議論枠。

1章は二項対立的政治図式を、「敵」の分類と再構成(「完全な敵」と「普通の敵」)する「政治的地理学」として紐解く。主に英語圏で言われる同術語よりも、ロシア語のより実体的地理的イメージを重視することで対立図式と相互的関係双方を整理し得ている。
ポスト冷戦と呼ばれる時期において、冷戦とはなんだったか、という現在の系譜を考える問いに対するバック‐モースの応えはシンプルだ。

If the era of the Cold War is over, it is perhaps less because one side has “won” than because the legitimation of each political discourse found itself fundamentally challenged by material developments themselves. (39)


当時のソ連内の政治・文化状況に対する省察と具体的な作品分析は非常に興味深いけども、個人的に興味をそそられたのは最終章だ。
冷戦体制崩壊の足音が確実に大きくなっていた当時、ロシアでいくつかの国際会議が開催された。
そこには西側諸国の多くの研究者が参加したという。たとえば、デリダ。『マルクスの亡霊たち』。

興味深いのはフレドリック・ジェイムソンの参加だ。彼は1991年のドブロヴニク国際会議に出席して、活発な議論を行っていたらしい。
彼は『ポストモダニズム、あるいは後期資本主義の文化的ロジック』でポストモダニズム論を段階論的に説明している。
この著作は、出版年こその件の国際会議と同年だが、所収論文の初出はだいたい1980年代半ばだ。

Postmodernism, Or, the Cultural Logic of Late Capitalism (Post-Contemporary Interventions Series)

Postmodernism, Or, the Cultural Logic of Late Capitalism (Post-Contemporary Interventions Series)

ところが、この後に書かれた論文が収められた最初(だと思われる)の著作『時間の種子』では、旧ソ連のある作家の作品(これは件の会議で共通テクストとなった作品と同じ作家)を論じながらより複雑な時間の在り方を提示して見せている。
The Seeds of Time (Wellek Library Lectures)

The Seeds of Time (Wellek Library Lectures)

この変化が直接的に件の国際会議によってもたらされたと結論づけるのはあまりに性急だとしても、なんらかなの少なからざるインパクトがあったことは想定不可能ではないと思う。
英語圏の批評理論の歴史性とその歴史化を考えるのであれば、この事例(が夢想以外の何かだとするなら)は重要な視点になるかもしれない。

っていう論文を書かなきゃいかん。

2014年度 第2回レイモンド・ウィリアムズ研究会開催のお知らせ

相変わらずのイベント掲示板ですが、イベントのご案内です。

なお、今回は場所の制約上、ご参加希望の方は西まで以下のアドレスにご連絡ください。

nomorelines8"at"gmail.com(at=@)

セキュリティシステムの必要で、フルネームとご所属が必要です。
上記アドレスにご参加の意志に合わせて明記いただけますと、幸いです。

また、開始時間がこれまでと変わっております。
ご注意ください。

みなさまのご参加をお待ちしております。



2014年度 第2回レイモンド・ウィリアムズ研究会
日程:7月20日(日)
時間:13:00から17:00まで
場所:関西学院大学丸の内キャンパス ランバスホール
http://www.kwansei.ac.jp/pr/pr_000553.html

スケジュール(担当者敬称略)
13:00- Border Country 読書会 
  Part One, 1- 4(pp.1-167)
  担当 Chapter 1-2:遠藤
  Chapter 3-4:杉本



15:30- Marxism and Literature読書会
Introduction + 1.1.Culture 田尻
1.2. Language 西
1.3. Literature  市川



17:00終了



17:15頃‐ 第二部(打ち上げ)スタート


ご参加いただける際には、お名前とご所属を添えて以下のアドレスまでご連絡ください。
事前にメールをいただけない場合には、会場にお入りいただけないことがございます。
nomorelines8"at"gmail.com(at=@)


テクストの底本は以下の通りです。
1. Raymond Williams, Border Country (Cardigan: Parthian, 2006)
↑Library of Wales Seriesのものです。念の為、アマゾンのページを張っておきます。
http://www.amazon.co.jp/Border-Country-Library-Wales-Smith/dp/1902638816/ref=sr_1_3_bnp_2_pap?ie=UTF8&qid=1401717021&sr=8-3&keywords=border+country

Border Country (Library of Wales)

Border Country (Library of Wales)


2. Williams, Marxism and Literature (Oxford U. P., 1977)
こちらもアマゾンを。http://www.amazon.co.jp/Marxism-Literature-Marxist-Introductions-Williams/dp/0198760612/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1401717187&sr=8-1&keywords=marxism+and+literature+williams

Marxism and Literature (Marxist Introductions)

Marxism and Literature (Marxist Introductions)


参加費は相変わらず無料です。
なお、テクスト2に関しましてはご希望の方にPDFを差し上あげます。


どうぞ、ふるってご参加ください。



にし

2014年度第1回レイモンド・ウィリアムズ研究会のお知らせ

もう、本当にただの掲示板になってしまいました。

そんなわけでお知らせです。



2014年度第1回レイモンド・ウィリアムズ研究会開催のおしらせ

日時
 5月31日

場所
日本女子大学目白キャンパス
百年館高層棟10階 英文学科会議室
https://www.jwu.ac.jp/unv/about/building/campusmap.html#anchor_01

内容・プログラム
14:00 The Long Revolution読書会 最終章:"Britain in the 1960s"
  改題担当:西

16:00 会議
 ・今後の研究会の方向性、課題テクストについて
 ・『RW研究』の編集や出版準備の状況について
 ・その他

18:30 打ち上げ(?)

今回は、これまで読んできたThe Long Revolutionの最終回です。最終章の解題は西が行いますが、本書全体の総括やウィリアムズの他著作との関連における位置付けなどにつきましては、西の微力では到底及びもつきません。みなさまと議論ができればと思います。
また、今後の文献検討なども行いたいと考えております。アイディアをお持ちの方はぜひともお持ちより下さい。



いつも通り、参加費は無料です。
どうぞ、ご参集ください。

第五回レイモンドウィリアムズ研究会 開催のお知らせ

もはやお知らせ掲示板です。
今後はもう少し自分勝手な駄文を載せたいなぁ、と思っております。

が、告知なのです。
みなさまどうぞ、奮ってご参加ください。


2013年度 第五回レイモンドウィリアムズ研究会 開催のお知らせ
日時:2月24日(月)

場所:一橋大学千代田キャンパス内、商学研究科リエゾン・ラボ、中会議室B
    http://www.hit-u.ac.jp/guide/campus/hitotsubashi.html

プログラム (敬称略)
第1部:Raymond Williams, The Long Revolution. (Parthian, 2011)読書会
10:00- Part Two, 2. The Growth of the Reading Public & 3. The Growth of the Popular Press
     解題担当:市川

11:10 - Part Two. 4. The Growth of 'Standard English'
     解題担当:大貫

12:20 - 13:20 昼食懇談

13:20 - 会議

14:20 - Part Two. 5-7
     解題担当:西

第2部:研究報告およびディスカッション
15:30 -研究報告1:エミール・ハンフリーズと成長物語
     発表者:河野

16:40 - 休憩

16:50 - 研究報告2:ラスキン、モリスの「自由」
     発表者:川端

18:00 終了

※参加費は無料です

※なお、使用施設の都合上、ご参加いただける際には、以下のアドレスにご連絡ください。
 みなさまのご参加、お待ちしております。
 連絡先:nomorelines"at"hotmail.com ("at"=@)
 西亮太(一橋(院))

『共通文化にむけて』

編者・訳者の方々にお恵みいただきました。
ありがとうございます。

レイモンド・ウィリアムズ『共通文化にむけて』

共通文化にむけて (文化研究 I)

共通文化にむけて (文化研究 I)

レイモンド・ウィリアムズは、私が研究対象(の一つ)としているエドワード・サイードがその影響を自他ともに認める「作家」であり、さらにはG. C.スピヴァクが(彼女なりのひねくれた表現・態度が伴うことはあるにせよ)いたるところで最大限の敬意を込めて言及する思想家でもある。
ウィリアムズは「カルチュラル・スタディーズ」の祖とされることが多いわけだけれども、上記の意味ではいわゆる「ポストコロニアル研究」に多大な影響を与え、いまだに与え続けているといって間違いない。

では、ウィリアムズがPoCoに与え(続けてい)る影響とは何かといえば、私の興味関心から恣意的に抜き出せば1.個人的経験を如何にして表象するのかという問題とそれと「理論」との関係に関わる問題系、2.オルタナティヴなマルクス主義あるいは(おそらく本人がより賛同するであろう表現を用いれば)「オルタナティヴな社会主義」を思考する際の尽きせぬ刺激、の二つが挙げられる。
と思う。

1.
詳しくはダニエル・ウィリアムズがR.ウィリアムズの論集Who Speak for Wales?に寄せた序文を、あるいはD.ハーヴェイの「戦闘的個別主義と世界的大望」を参考にしていただきたいが、ウィリアムズはいわゆる「(批評)理論」と「フィクション」両方で書いてきた「作家」であったのであり理論のみでは到達し得ない議論をフィクションでも表象しようとしていたという点に注意した上で、その「フィクション」に、そしてもちろん「理論」にも、英国とウェールズの境界地帯(border country)で生まれ育ち独特の変化と社会主義に触れながら育ちケンブリッジ大の教授にまでなったという個人的な経験が書き込まれているということ、さらにはそれが彼の文化理論において大きな意味を持っているということに注意する必要がある、ということだ。
 個別的な経験が思想家の「理論」に大きな影響を持っているということは、ある意味では当たり前のことではあるが、「理論」として「使われる」際には往々にして見過ごされてしまうことでもある。これは理論的な限界を見出して「彼の時代の限界だ」だとか「彼の経験からしてしょうがない」などとエクスキューズを引きだすためのものではない。
 PoCo関連のフィクションや自伝、批評において自己言及的な著作が多いことは既に指摘されているし素晴らしい論考がいくつかあるが、脱植民地運動やその後の政治的混乱、資本主義との関係、グローバリゼーション…など社会が大きな変化に見舞われその中で社会を変えようとする際に、時にはやむを得ず、時には希望の源泉として行われる抽象化のプロセス(人権の擁護、人道性の確保、他地域との連帯など)が個々の経験をどのように含んできたのかあるいは排除してきてしまったのかを考えるとき、ウィリアムズの著作全体と彼の経験、ウェールズの文化の変化、ウェールズの労働運動の経験がどう扱われているかという視点はとても有用な材料を提供してくれるのだ。
 もちろん、これは私が研究しているサイードにとっても重要な点であったことは疑い得ない。パレスチナキリスト教系の裕福な家庭に生れながら子ども時代のほとんどをカイロでおくり、合衆国に渡って英文学および比較文学を専門としたサイードにとって「パレスチナ大義」を擁護することは、彼の危うい「パレスチナ人であること」とどうかかわっていたのか。そしてこれらの事柄と批評理論はどう連関していたのか。

Who Speaks for Wales?: Nation, Culture, Identity

Who Speaks for Wales?: Nation, Culture, Identity

他者の自伝 ――ポストコロニアル文学を読む

他者の自伝 ――ポストコロニアル文学を読む



2.
 ウィリアムズは大学内でしか通用しないような専門用語を可能な限り排して日常的な語彙を用いて文化や社会を記述しようとした。それは凝固し当初の社会性や可変性を排除することで正当性を確保する専門用語にではなく、日常語彙にこそ変化の徴と成長の兆しを見出していたからに他ならない。と思う。この「成長」や「変化すること」は、マルクス主義の影響を大きく受けながらも「(別様の)社会主義」を論じ続けたウィリアムズの重要な特徴であり、ウィリアムズを読む際のむずかしさの原因の一つでもある。なぜならウィリアムズの著作を読む際には、
「なんだかすいぶんと回りくどい言い方をするな」→「あ、これって〇〇のことか!(〇〇=専門用語。たとえば「疎外」や「イデオロギー」など)」→「なぜこんなに持って回った言い方をするのか?」→「自分の引き出しにある専門用語ではとらえきれない変化や事象があるのかもしれない」→もやもや…
を非常に多く経験することになるからだ。そしてこの読書経験こそが彼の理論において重要な「コミュニケーション」、さらには「コミュニティ」へとつながる重要なプロセスともなっている。
 「理論の生起したときの苛烈さ」(サイードの言葉)を可能な限り読むためには、読者の現在において読者がその読書体験によって自身の立ち位置と自身の変化を体験するようなものでなければならないのだろう。可能な限り社会を正確に記述しそこから社会の変化の可能性を探るものが「マルクス主義」や「社会主義」なのだとすれば、それは「いまそれを読んでいるわたし」を俎上に載せることなしには読まれ得ないのだと思う。そしてウィリアムズの著作は明らかにそのように書かれているし、(すべての著作ではないが)いくつかの著作はそういった読書体験になるように書かれている。(たとえばLong Revolution)

Marxism and Literature (Marxist Introductions)

Marxism and Literature (Marxist Introductions)

The Long Revolution

The Long Revolution

  • 作者: Raymond Williams,Anthony Barnett
  • 出版社/メーカー: Parthian Books
  • 発売日: 2012/04/01
  • メディア: ペーパーバック
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と、相変わらず勢いで突っ走ってしまった…。


最後に、『共通文化にむけて』から引用を。
「文化とはふつうのもの」の末尾から。

>> 
技術的な手立てはかなりむずかしいが、なによりむずかしいのは、わたしたちの頭の奥で自分たちが拠って立つ諸価値を受け入れることだ。つまりふつうの人びとが統治をおこなうべきだということ。文化と教育はふつうのことだということ。救ったり、とらえたり、導いたりする大衆(masses)などというものはなくて、むしろくらしが混乱を伴いつつ度外れに急速に拡張してきたなかで、そこに巻き込まれて群れをなして生きている人びとがいるということ、これである。物書き(writer)の仕事はひとりひとりの個人の意味にとりくみ、その意味をともに分かちあえるものにしてゆくことだ。これらの意味が広がりつつあるのがわたしには見える。その道程において、もたらされるべき変化は土地のなかに書き込まれている。そこでは、言葉は変わっても、声は同じままでいる。(三二)

第四回レイモンドウィリアムズ研究会 開催のお知らせ

相変わらずの告知掲示板ですが、告知です。

ど年末に文字通り朝から晩までやります。

2013年度 
日時:12月29日(日)

場所:一橋大学千代田キャンパス内、商学研究科リエゾン・ラボ、中会議室A
    http://www.hit-u.ac.jp/guide/campus/hitotsubashi.html

プログラム (敬称略)
第1部:Raymond Williams, The Long Revolution. (Parthian, 2011)読書会

The Long Revolution (English Edition)

The Long Revolution (English Edition)

10:00- Part One, 4. Images of Society
     解題担当:西


11:30 - 13:00 休憩・懇談


13:00 - Part Two. 1 Education and British Society
     解題担当:井上




第2部:研究報告およびディスカッション
15:00 -研究報告1
     発表者:西


16:30 - 研究報告2
     発表者:河野


18:00 終了


※なお会場使用および昼食注文の都合上、参加ご希望の方はお手数ですが西亮太(nomorelines 'at' hotmail.com (at=@))までご連絡ください。
連絡の際にはお名前、ご所属、参加時間帯(全日・午前のみ・午後のみ)を明記して下さい。

参加費は無料です。
みなさま、奮ってご参加ください。

なんだかこの研究会ではダブルヘッダーが常態化してきました。はい、がんばります。

ちなみに西の研究報告はwork in progress感丸出しにはなるかと思いますが、ウィリアムズがcommonと言い、サイードがtaskと言う、いわば「批評意識」と呼べるであろうものをまずは並置してみることで、単純な対立とは異なった関係を構想します(と大風呂敷を広げてみて、がんばります)。

どなたでもウェルカムです。
どうぞ、お気軽にいらしてください。年末ですし。

ええ、年末ですし。

【備忘録】『風立ちぬ』について

せっかくつぶやき連投したので。




やっと『風立ちぬ』観てきた。とりあえず、見終わった直後の感想。「タバコ吸いてぇ。」


二つの「美しい」が堀越と奈緒子の間でことなった形で響きあい、それにartの二つの意味が対応する。幸福な成就の望めないこの二者は「風」を仲立ちに浮世から離れた「離れ」で束の間の時間を過ごすが、カタストロフ(震災と戦争)の象徴たる煙をこよなく愛する堀越は奈緒子の美しさを護れない。


人工的なものと芸術の間で揺れるartを「風」がかろうじて仲立ち(し損ねる)、というのは自然との想像的な交感あるいはイノセンスの象徴ちょして「ふわっと飛ぶ」を描いてきた宮崎の(トトロ、ラピュタなど)いわば「出自」を、「呪われた夢」を指示しているように思われる。メーヴェのイメージ。


おそらく、宮崎アニメがエコ的なものを描く際に頻出する「ふわっと浮かぶ、飛ぶ」は、人間的なものと自然的なものの、言わば異体の複合物=キメラであって、そこで描かれる/それを描くのは「キメラのアート」なのだろう。トトロのコマ、ネコバス、メーヴェ巨神兵腐海の生き物たち、ラピュタ...


だから、自然/人間の対峙の悲観的帰結を前景化したタタリ神は「ふわっと飛」ばない。物語りを駆動させ展開させ、時には解決する「キメラのアート」群が、おそらく宮崎的なエコ思想の形象を成立させているのだけど、今回の映画はそのキメラが火を吐くものであることを、人間/自然対立の解消あるいはその合一のユートピアが「呪われた夢」であること、そしてそれが如何に呪われていようとも夢であることを、語っているのだと思う。どれほど呪われていても、逃れがたいほどに、言葉を失わせる程に、「美しい」。

奈緒子が「美しい自分だけを見せたかった」と語られるとき、堀越との負っているイメジャリーの対立構造を鑑みると、今回、宮崎映画ではじめてキスシーンとセックスシーン(へと直結するシークエンス)が描かれた意味は大きい。加えて、結核であるにも関わらず自身を美しく見せようと振る舞う奈緒子の横で、自身の美しい飛行機のための設計をしながら煙草を吸うシーンも決定的に重要だ。なぜなら冒頭の震災後の市街地炎上の遠景と末尾の爆撃による市街地炎上の遠景が、立ち上る煙で重ね合わせられるとき、そこでは人間/自然両方によるそれぞれの災禍が、煙によって結び付けられているから。

とはいえ、この枠組みだと「人間/自然=男性/女性=技術/芸術=強/弱」の枠組みの再確認になってしまう。これを宮崎のイデオロギーと考えるならばこともできるけども、「国民的作家」でありつづけてきた彼の、彼なりの率直な総括なのだろうと、私は感じた。


まだ、『風立ちぬ』について悶々としてる。堀越の飛行機への夢を「呪われた夢」と述べるところはとりわけ重要な気がする。たとえば、オッペンハイマーの原爆へのそれを考えてみたらどうだろう。堀越の苦境は「わたしたち」の苦悩でもある。…気がする。




一応、まとめてみる。
 今作で重要なのは人的/自然的双方のカタストロフが同じ「煙」というイメージで表現される一方で、堀越と奈緒子はそれぞれart=技術(航空機の設計士)/芸術(油絵を描く)=人工的(飛行機、居場所は工場)/自然(居場所は山奥の療養所)などの対立的イメージを負わされているという構造。
この対立構造を媒介するのが、カタストロフと死においては煙であり、堀越と奈緒子については「風」となっている。
 この「風」は宮崎アニメの特徴とされてきた「浮遊感」を支えるものであり、エコ思想が発露する際の「人工+自然」という奇妙なキメラ的アートの形象となっている。
 「キメラのアート」は、超自然的なトトロがなぜか人間的コマに乗る、ネコがバスになる、自然だと思われていたが実際には人造であった腐海の蟲たち、巨神兵、タタリ神、ポニョなど、宮崎アニメがエコ思想を前景化させる作品で必ず登場するもので、これらキメラのアート群が意味づけられたりすることであるいは直接的に物語に介入することで、物語は展開あるいは解決する。

 今作はこの「ふわっと浮く、跳ぶキメラのアート」の究極的な形象として航空機が挙げられ、そこに宮崎自身の傾倒、あるいは彼自身の飛行機を「美しい」と考える意識が重ねあわされている。
 堀越の作る飛行機で最も理想的なものはおそらく、奈緒子(=自然)へと自身をつなげてくれる紙飛行機だと思われる。だから、堀越にとっての夢である理想的な飛行機は、対立的関係の解消となっている。

 が、この夢は歴史的に避けがたく「呪われた夢」とならざるを得ない。今作は宮崎自身のエコ思想の根幹であった自然/人間の解消のための技術装置/作品であった「キメラのアート」が「呪われた夢」であることを吐露するものなのだろう。
 さらに、震災以降の日本でこの視点から本作を考えると、この「呪われた夢」には、マンハッタン計画を主導したオッペンハイマーにとっての原子力、そして「太陽を手に入れた」とされた日本の原子力導入を想起せずにはいられない。
 とはいえ、これは「呪われていること」を理由にその夢を断罪するものではない。また、美しさでもって「呪い」を美的に解消しようというものでもない。本作は、「国民的作家」のこれまで総括なのであり、それによってかろうじてその可能性が垣間見えるかもしれない「風」を立たせる試みなのだと思う。

と、結局まとまらず。